新宿キリスト教会ブログ

今まで一度も福音を聞いたことのない方へ

【書き起こし】2024年11月3日 主日礼拝メッセージ『キリストの血の力』(ヘブ9:11-15)

2024年11月3日 主日礼拝メッセージ『キリストの血の力』(ヘブ9:11-15)

YouTube https://www.youtube.com/watch?v=8qFRJc4_28I

 

"しかしキリストは、すでに成就したすばらしい事がらの大祭司として来られ、手で造った物でない、言い替えれば、この造られた物とは違った、さらに偉大な、さらに完全な幕屋を通り、

また、やぎと子牛との血によってではなく、ご自分の血によって、ただ一度、まことの聖所に入り、永遠の贖いを成し遂げられたのです。

もし、やぎと雄牛の血、また雌牛の灰を汚れた人々に注ぎかけると、それが聖めの働きをして肉体をきよいものにするとすれば、

まして、キリストが傷のないご自身を、とこしえの御霊によって神におささげになったその血は、どんなにか私たちの良心をきよめて死んだ行いから離れさせ、生ける神に仕える者とすることでしょう。

こういうわけで、キリストは新しい契約の仲介者です。それは、初めの契約のときの違反を贖うための死が実現したので、召された者たちが永遠の資産の約束を受けることができるためなのです。"

ヘブル人への手紙 9章11~15節

 

1部「キリストの血の力」(ヘブル9:11~15)

 

キリストの十字架の救いは完全なものです。その救いに与ったと救われたという喜び、それが私たちの信仰生活、教会生活です。それで毎日、自分が救われているということがどんなに神様の恵みであるのかということを味わっていると、いろんな問題が来たとしてもそれは問題ではありませんけれども、しかし毎日喜びに与っていないと、問題とか苦しみとか、あるいは迫害が来てしまったりすると、今まで教会に集まっていたその人たちが集まることをやめてしまったり、色々な苦しみの中で信仰から離れていってしまうようになります。そのような状況の中に置かれていたのが当時のヘブル人でした。それでこのヘブル人への手紙を書いた記者は、そのような状況を見ながら、今まで過去にヘブル人の人たちが神殿で礼拝を捧げ、生贄や捧げ物を捧げ、また大祭司が立てられていたというようなそのようなものにキリストはまさる方なんだということを、この箇所で詳しく書いています。

 

それでこのヘブル人への手紙の書かれている内容が本当に分かると、どのような苦しみとか迫害、あるいは試練が来たとしても、それは何も問題ではないということが分かるようになります。その鍵となることばがキリストの血ということです。キリストが血を流されたその血がどれほどの力があるかということです。今皆さんがこのところで礼拝を捧げている、そのような神の子どもになったという、その背後に働いたのはキリストの血の力です。そのキリストの血の力が働くと、お読みしたヘブル人への手紙の9章の14節、「まして、キリストが傷のないご自身をとこしえの御霊によって神にお捧げになった血は、どんなにか私たちの良心を清めて死んだ行いから離れさせ、生ける神に仕えるものとすることでしょう。」

 

キリストの血の力というものは、偶像から私たちを完全に離れさせるということです。つまり、キリストが本当に分かったとその瞬間に、今までそれまで自分がこれが素晴らしいと思っていたもの全ては偶像であったということが分かるようになるということです。もちろんその中には宗教という悪いものも含まれていますけれども、悪いものではなくたとしても、それはキリストにとって私は偶像になっていたと、その本当にキリストを知ったという時に心の目が開かれて、今まで自分が仕えていたもの、今までこれが一番素晴らしいと思っていたものは皆偶像にすぎないということが分かるようになる、それがキリストの血の力です。

 

それで神様はまず第一番目に初めの契約を人間に与えられたとあります。この初めの契約というのはヘブル人への手紙の8章の7節です。この契約が与えられたのは出エジプト後のことでした。この出エジプトというのは旧約聖書の中では救いのひな形を意味していますから、この出エジプトしたということはそれまで自分は奴隷だったけれども、その奴隷から解放されたということが意味されています。

 

この奴隷というのは当時はエジプトの王パロですけれども、それはある意味この世を支配するサタンのひな形です。それで私たちが出エジプトしたということは、サタンの支配から解放されたということです。あるいはこの奴隷というのはこの世の奴隷でした。契約の民はエジプトの奴隷として毎日レンガを造っていました。私たちも過去はこの世の流れに従って自分がどこから来てどこに行くのか全く分からない状態でしたから、世の中の奴隷となっていました。今もほとんどの人たちは自分はそうではないと思っているでしょうけれども、実際にはサタンの奴隷、そしてこの世の奴隷というそのような状態です。

 

そこから解放する力はただ一つでした。羊の血が流されるということです。それが出エジプトすることができたただ一つの原因です。ですから羊の血を塗っただけなのに一瞬のうちに奴隷から解放されるということ、それがその背後に神様が与えてくださっているその初めの契約の意味があります。門柱とかもいに血を塗りなさいと。血の量ではなく、ただ自分の家に臨む呪いと災いは完全にその血を神様が見たら過ぎ越していく。もし血が流されていないならばその家には呪いと災いが臨みますから、初子が滅びていく、死んでいく、そのような血の意味があります。

 

それで出エジプトをした後に神様が荒野へ導かれて、その荒野にはシナイ山がありました。そのシナイ山で初めの契約が与えられました。それが十戒というのがその契約の中心です。あるいは、律法と。当時の人たちはこの十戒が与えられた時に、私たちはそれを守りますと、そのように告白しました。告白した通りに十戒を守り通したでしょうか。聖書では守り通さなかったとあります。

 

つまり行いによっては十戒は不可能であるということです。神様がその与えた戒めですから聖なるものですけれども、しかし創世記3章の人間、神様から離れてそして罪の中に死んでいるそのような人間に、外側からこういうことを守りなさい、こういうことはしていけませんと、どんなに教えてもそれは意味がないということです。子どもを教えている、育てているお母さんならばよく分かると思いますけれども、どんなに子どもを叱ったとしてもそれで子どもが治るということはありません。子どもの方で本当に自分は悪かったと、そのことが分かって、お母さんが話してたこと、お父さんが言ってたことは本当は正しかったんだと、その心の中で子どもが理解した時に初めてその今まで叱られていたことが少しは治るようになります。

 

それと同じように、外側からどんなに石の板に書かれているその十戒を教えても、人間にはそれを守ることができません。それでパウロという人はこの十戒、律法というものは福音を知った後見てみると、自分を死に導くものだということを知ったとあります。つまり文字は殺す働きしかないということです。私たちを罪に定めます。第2コリント人への手紙の3章の6節、神様から与えられた律法を守ろうと思っても守り通すことができません。

 

それで神様が与えてくださった約束の地カナンに入ってきました。カナンの地にあったものは全て偶像ですから、神様は偶像を滅ぼしなさいと言いました。滅ぼしたはずなんですけれども、しかし完全には滅ぼしきれませんでした。それで偶像が少し残ったままカナンの地に入って、そしてそこで生活するようになった時に、この契約の民がしたことは何でしょうか。カナンの地に自分たちが残しておいたバアルであるとかアシェラであるとか、そのような偶像に仕えるようになってしまったということです。

 

それでその後そのカナンの地、約束の地にソロモンによって立派な神殿が立てられました。表向きは神殿で礼拝を捧げるようにしますけれども、しかしその人間の心というものは闇であり思いは虚しいですから、結局は偶像によってその心の闇あるいは思いの虚しさということを満たす以外にありませんでした。荒野から荒野で最初に造ったのは金の子牛でした。もう、いつもこの契約の民がすることは偶像を造ったり偶像の前でひれ伏したりというようなこと。それで預言者エレミヤを通して、もうこのような契約はもうダメだと、私はあなた方に新しい契約を与えると、そのようなメッセージが伝えられました。エレミヤが伝えたメッセージは、もうあなた方はこの文字によって人から教えられたその神について知ることではなくて、自分の心の中、その思いの中に神を知ることができる、そのような心、思いが与えられる、それが二番目の新しい契約です。

 

この神様が新しい契約を与えると約束した時にまず必要なことが、完全な幕屋でした。もちろん荒野で神様に示されたそのかたち通りに幕屋は造られました。その人間の手で造った幕屋というのは天にある幕屋のひな形ですから本物ではありません。本物の幕屋がこの地上に来たということです。ヨハネ福音書の1章の14節、「ことばは人となってこの世に来られた」とあります。それから「この方の中にいのちがあった。このいのちは人の光であった」。このようにしてことばが人間となってこの世に遣わされた、これがクリスマスの出来事です。神様がご自身のひとり子をこのように送ってくださいました。

 

目的は何でしょうか。その目的はシナイ山の契約ではなく、カルバリ山の契約を与えるためです。カルバリ山の契約というのは何でしょうか。それはヨハネ福音書の19章の30節、創世記3章から始まった人間の全ての問題は完了した、これがカルバリ山の契約です。それを福音と言います。キリストの福音です。どれほど私たちにとって喜びの知らせでしょうか。本当に福音が喜びの知らせだということが分かると、この救いは完全ですから毎日喜びを味わうことができますけれども、しかしこの福音が全ての問題の解決だということが分からないと、問題の方が大きくなってしまったり、試練の方が大きくなってしまったり、苦しみの方が大きくなってしまいます。そうすると神様から離れていってしまいます。ですから福音を知ることが信仰生活の全てですからイエス様はキリストとしてまことの王の働きを十字架の上で成し遂げられました。それが悪魔という死の力を持つものをご自分の死によって滅ぼされたということです。この世の王サタンは完全にその権威が縛られて、もう私たち神の子どもたちでさえも、ナザレのイエス・キリストの御名によってと言ったら、その悪魔は退く以外にありません。それでパウロは「平和の神は速やかにあなた方の足の下でサタンを踏み砕いてくださる」と言われました。この王としてイエス様が成し遂げられたこと、その権威は皆さんに与えられていますから、この権威が福音を知ったということは使えるようになるということです。

 

色々な苦しみの背後で働くのはサタンですから、そのサタンが働いているということが心の目が開けば見えるようになりますから、そうすると邪魔をする暗闇の力、サタンはキリストの御名で命じる、退け。これが福音によって与えられている権威です。

 

それから大祭司として、先ほどのみことばにありましたように、ヘブル人への手紙の9章の12節です。「またやぎと子牛との血によってではなく、ご自分の血によってただ一度まことの聖所に入り、永遠のあがないを成し遂げられた」のです。あがないというのは救いですから、そのあがないはただ一度で完全で永遠である、このことを悟っただけでも罪に定められることはない、神様がその罪を思い出すことはないというそのみことばが成就しますから、私の罪は皆キリストの血によって赦されて清められているという確信が与えられるようになります。

 

そしてもう一つ、キリストはまことの預言者ですから、神様から人間が離れたということは神のことばから離れたということですから、この肉体の垂れ幕を裂かれたことによって、至聖所に私たちが入ることができる道を開いてくださいました。つまり神様のことばが皆さんに臨むということです。

 

それでイエス様をキリストとして、この完全な幕屋として来られた方は、その名をイエス様とつけられました。そののイエスとつけられた方がカルバリ山でキリストの働きをされた、これが福音ですから、このイエス様をキリストとして自分のその心の中に受け入れをする瞬間があります。あ、本当に私はキリストが必要だ、私は神様から離れているし罪を犯しているし悪魔に完全に支配されているから、この預言者、大祭司、王としてキリストが全ての問題を十字架の上で終わらせてくださったことを信じます。そのように受け入れた時に起こることが第1コリント人への手紙の2章の12節です。「あなた方はこの世の霊を受けたのではなく、神の御霊を受けました。それは神様の恵みによって与えられている賜物、祝福がどのようなものであるかを知るためです」とあります。

 

エス様を心の中に受け入れたということは、このことがその人の中に臨んだということですから、生ける神のことばが皆さんの中に刻印されて永遠のいのちが与えられ、まことの光が心の中に臨みます。今までは闇でしたけれども暗闇でしたけれども、今はキリストにあって光となりました。それで神殿、あなたがたの体は神の神殿であって神の御霊が宿っている、この状態になります。受け入れた瞬間です。受け入れた瞬間に全ての問題は終わっているということです。

 

ところがいくら「あなたの問題は終わってます」と言っても、「いやお金が」とか「いや病気があって」とか「いや家族の中でこういう問題があって」と、そこで大体の人はその現実に起こっている問題をそのように言って、自分の中にこのことがなされているということが悟ることができません。実際にはこのような状態なんですけれども、そのことがわからないと「いややっぱり私の問題は終わってません。イエス様がキリストで全ての問題を終わらせたと信じられません」と、そういう風に言います。

 

心の目が開かないとどんなにことばで説明してもそれは無駄なことですけれども、できないことですけれども、しかしある日神様の恵みによって心の目が開いた、その瞬間にキリストがどのような方でいらっしゃるか、この王として大祭司として預言者として問題が全て終わらせてくださったということが分かった時に、「あ、私の問題というのは現実にはあってもやはりイエス様が完了したと言われたならば、もうそれは終わっているんだ」と。それは自分の肉から出る信仰ではなくて、神様が恵みによってそのような信仰を与えてくださいます。問題があったとしてもですね、ですからあるんですけれども、でもそれは終わっている。あなた方の中におられるキリスト、つまりキリストを正確に見たということです。

 

人から「あなたの問題は終わってますよ」と教えられたとしても、それは律法で外側から言っているような状態ですから、何度繰り返し「あなたの問題は終わってます」と言っても相手は終わりません。しかしこの世の霊、不信仰を受けたのではなくて神の御霊を受けました。神の御霊がその人の中に入って、あ、自分の中におられるキリストですから、自分の中にキリストがおられるということが本当に分かったならば、それで完了なんですけども、実際には自分の中にキリストがおられるということがどうやらよく分かってない、そういう状態です。

 

世に渡って長い間これは隠されてきた奥儀ですから、神様が啓示してくださる以外にありませんけれども、しかし神様がこのキリストを皆さんに啓示してくださったならば、今どんな問題が例え起こっていたとしても、それは関係ないということです。それはなぜかと言うと生ける神に仕えるものとなったからです。それがキリストの血の力です。キリストが十字架で血を流してくださったとすれば、信じた皆さんは当然キリストに仕えるものとなる、そのようなはずです。

 

ローマ人への手紙の14章18節で、キリストが私たちの中に内住してくださっているというだけではなくて、図で説明すると、私たちの心の王座について主人となってくださり、私がここにいるのがこのキリストに仕えるものとなったという、その絵ですね。

 

以前は私たちはこちらにいたわけですけれども、しかし立場が逆になりました。私はキリストに仕えるもの、つまりキリストが私の主人となってくださっているということが確かであれば、自分の力ではいろんなものが絶対に不可能ですけれども、しかしキリストが私の中にいてくださって、代わりにご自分の働きをしてくださったならば。カナの婚礼の時にぶどう酒がなくなってしまったという問題が起こった時に、このキリストが水をぶどう酒に変える。それはイエス様をお客様として迎えたのではなくて、この方が言うことは何でもその通りにしてくださいと、そのようにマリアが言った。その言葉の通りに、しもべたちがこのイエス様のことばに、その通りに水を入れなさいと言えば水を入れて、今汲みなさいと言えば汲んだら、いつの間にか水がぶどう酒に変わっていた。

 

そのように、自分が主人となっていたらサタンがいろいろ攻撃して不信仰になってしまいますけれども、キリストが主人となってくださったならば、完全にまことの王として勝利してくださっていますから、私たちの生涯に起こる問題は問題ではなくて、祝福を受ける機会になります。

 

2つ目に、生ける神に仕えるものとなったということは、御霊に仕えるものとなるということです。第2コリント人への手紙の3章6節、このみことばはここと同じですから、文字は殺し、御霊は生かす。そのような働きをするようになるということです。

 

肉によって人を生かすことはできません。文字によってももちろん生かすことはできません。いのちを与えるのは御霊です。そのいのちの御霊が皆さんの中に来ているということは、皆さんはみことばに仕えるようになります。今日のみことば、神様が今日もし御声を与えてくださったならば、どのようなみことばなんだろうかと、そのみことばを聞こうとします。

 

今日の祈り、この与えられた契約を握って祈るようになります。そして今日の礼拝、今私たちがこのようにして共に集まっているのは、御霊と真理のみことばによって礼拝をするためです。一切偶像のようなものから解放されていますから、ここには目に見えるようなそういう偶像はどこにもありません。これが神ですと言えるならば、それは全部偶像です。神は霊ですから、神を礼拝するものは御霊がその人の中に宿っていて、そして真理のみことば、聖書のことばを持って私たちは神様を今礼拝しています。このような礼拝者を父は求めておられます。

 

それで最後に、生ける神に仕えるものとなったということは具体的に何に仕えるのでしょうか。それは神がご自身の血をもって買い取られた神の教会に仕えるものとなります。使徒の働きの20章28節、教会に仕えるということは何をするために教会に仕えるのでしょうか。

 

多くの人たちは教会の中でいろんな奉仕がありますから、その奉仕をする、それが神様に仕えていることだと、そのように理解します。もちろんそれは正しいことであっていますけれども、大体普通の教会員となった人たちはそのように教会で奉仕をして献金を捧げ、そういうことが神様に仕えてることだと、そういう風に思い、教会に仕えてることだと、そういう風に思います。

 

しかし教会に仕えるということで、普通の教会の人たちが見落としていることが1つあります。それが何でしょうか。コロサイ人への手紙の1章25節、パウロは自分は教会に仕えるものとなったと告白した後で、教会に仕えるということは神のみことばを余すところなく述べ伝える者ですと、そのように告白しました。

 

エス様がご自分の体である教会を造られました。教会はキリストの体で、頭はキリスト。皆さんはその体です。頭であるキリストのその考え計画は、まだ1度も福音を聞いたことのないその人に、この福音、素晴らしい喜びの知らせを宣べ伝えること。それが神様の計画で御心ですから、体である私たちはその1つ1つの器官として現場に遣わされて、神のことばをまだ1度も聞いたことのない99%の異邦の、そのような民に伝える。これが教会に仕えるということの、目に見える1つの現れです。

 

それをする力が、キリストの血の力ということです。皆さんに頑張ってやってくださいという話はどこにもありません。自分でさえもそんなこと自分でやったら、もうヘトヘトになって疲れてしまってやめてしまいます。しかしキリストの力、その力、血の力が皆さんに働いたということが、今皆さんがこの所にいるということの証拠です。その力が皆さんのうちに働いたので、皆さんが恵みのゆえに救われました。救われただけではなく、教会に共に集まって礼拝を捧げています。そして礼拝が終わった時には、今度は聖徒の交わりがあります。

 

非常に教会にとって聖徒の交わりということも重要なことです。フォーラムをしながら共に慰め励まし合うことが必要です。だからヘブル人への手紙の記者は、共に集まることをやめたりしないでと言っているわけです。

 

いかに多くの人たちが共に集まることをやめてしまうのでしょうか。それはこのキリストの福音が正確に分からないと、そのようにして散らされてしまうからです。しかしイエス様はその散らされていった人たちのためにも、今も御座で取りなしてくださっています。ですから帰ってきたならば、ああ本当にキリストが取りなしてくださった、その力が今まで離れて信仰を失ってしまったような人たちをまた戻してくださったんだということが分かるようになります。

 

キリストの力が私たちに働くと、今度は伝道と宣教に向かっていくようになります。これは私たち皆さんが一生懸命頑張ってするというようなそういう話ではなく、皆さんのうちにどなたがいらっしゃるのでしょうか。あなた方の中におられるキリスト、そのキリストの力によって労苦しながら奮闘する、これが伝道と宣教です。皆さんの力で労苦や奮闘したら終わってしまいます。しかしキリストの力は永遠であり無限ですから、その限りのないキリストの力が皆さんに与えられて、そして満たされたならば、この希望は絶対に失望に終わることはありませんと。落胆するような状況に例え置かれていたとしても、いつも希望が持てます。

 

私ではなくキリストがご自分の働きをしてくださるんだ。私はいつも喜んでいればいいわけです。皆さんもいつも喜んでいればいいです。キリストが私と共におられて私を完全な救いの中に入れてくださった、それだけで十分です。それでそのことを今日も味わいながら、キリストの血の力、これが皆さんを根本的に内側から変える神様の働きです。

 

ですから福音には力があります。本当にキリストを知ったならば、頭で知ったならば、それは別の話です。本当に御霊が皆さんの中に宿って、御霊によってキリストが啓示されたならば、それは全ての問題は終わった、そのような結論が自然に出るようになります。その祝福を味わう皆さんお一人お一人となりますように、主の御名で祝福をお祈りいたします。

 

父なる神様、今日も私たちを子どもとして呼んでくださり、共に集まって礼拝を捧げることができる恵みを心から感謝をいたします。御座についておられる方と子羊とに全ての栄光とほまれと賛美をお捧げいたします。キリストの血の力を悟ることができますように心の目を開いてください。不信仰にさせるサタンと暗闇の力をキリストの御名によって完全に縛り退けてください。イエス様の御名によってお祈りいたします。アーメン。

 

【書き起こし】2024年10月27日 主日礼拝メッセージ『完全に救うことのできるキリスト』(へブル7:17-28)  

【書き起こし】2024年10月27日 主日礼拝メッセージ『完全に救うことのできるキリスト』(へブル7:17-28)  

YouTube https://www.youtube.com/watch?v=hR48QrGFOvE

 

"この方については、こうあかしされています。「あなたは、とこしえに、メルキゼデクの位に等しい祭司である。」

一方で、前の戒めは、弱く無益なために、廃止されましたが、

--律法は何事も全うしなかったのです--他方で、さらにすぐれた希望が導き入れられました。私たちはこれによって神に近づくのです。

また、そのためには、はっきりと誓いがなされています。

--彼らの場合は、誓いなしに祭司となるのですが、主の場合には、主に対して次のように言われた方の誓いがあります。「主は誓ってこう言われ、みこころを変えられることはない。『あなたはとこしえに祭司である。』」--

そのようにして、イエスは、さらにすぐれた契約の保証となられたのです。

また、彼らの場合は、死ということがあるため、務めにいつまでもとどまることができず、大ぜいの者が祭司となりました。

しかし、キリストは永遠に存在されるのであって、変わることのない祭司の務めを持っておられます。

したがって、ご自分によって神に近づく人々を、完全に救うことがおできになります。キリストはいつも生きていて、彼らのために、とりなしをしておられるからです。

また、このようにきよく、悪も汚れもなく、罪人から離れ、また、天よりも高くされた大祭司こそ、私たちにとってまさに必要な方です。

ほかの大祭司たちとは違い、キリストには、まず自分の罪のために、その次に、民の罪のために毎日いけにえをささげる必要はありません。というのは、キリストは自分自身をささげ、ただ一度でこのことを成し遂げられたからです。

律法は弱さを持つ人間を大祭司に立てますが、律法のあとから来た誓いのみことばは、永遠に全うされた御子を立てるのです。"

ヘブル人への手紙 7章17~28節

 

先週は初めて東日本神学校という東北地方にある神学校に行く機会が与えられました。初めてそこに来ましたので、そこで神学生あるいは聴講生として来ておられる一人一人に、「もし牧師としての召命のみことばが与えられているならば、その召命の証しを、まだ牧師としてみことばが与えられていなければ救いの証しをしてください」と、そのようにお願いして皆さんの証しを聞く機会が与えられました。

 

東北地方はご存知のように、偶像の中でも本当にひどい地域です。ですから、そのような中からアブラハムの子孫として導かれ、そして神様のことを学ぶ神学校まで導かれたということは、本当に神様の一方的な恵みだと思います。しかし、その証しの中では健康的な問題であるとか、経済の問題であるとか、家庭の問題であるとか、皆それぞれ問題を抱えていました。

 

それである方が私にこのような質問をされました。「なぜ私にはこのようなヨブのような苦しみが与えられているのですか」と。本人がヨブのようなということをおっしゃったので、「神様がヨブにそのような苦しみを与えられた目的は、心の目が開くためです」と、そのように答えました。

 

心の目が開いた結果、苦しみの中で「私は贖う方を私は知っている。この目でその方を見る」とヨブはそのように苦しみの中で告白しました。つまり、ヨブを贖う方はキリストですから、「キリストを私はこの目で見る。他の人の目ではなく、私の目がこれを見る」とヨブがこのように苦しみの中で信仰を告白しましたけれども、その告白した信仰のように、「今まで私は噂で知識で神様のことを知っていました」、つまりそれは今まで私は宗教生活をしていましたけれども、「今私はこの目であなたを見ました」、つまり福音を知りましたということです。

 

宗教と福音は全く別のことです。神様の目的は私たちが宗教生活から離れて福音の中に入ることです。福音の中に入ったということはキリストを見たということです。キリストを見たということは全ての問題が終わったということです。福音に結論が出るということです。

 

福音に結論が出たということは、自分が抱えているどのような問題であったとしても、その問題はキリストが私の問題を完全に救ってくださった。今日のみことばの通りに、私の問題というものは私が頑張って解決する、キリストが何か問題を残しておられる、そういう救いではなくて、私には完全な救いが与えられているというこの信仰に立つということです。

 

質問に答えながら、自分自身が心の目が開くということは、福音に結論を出したということと同じなんだというように思わされました。それで皆さん一人一人も今日みことばの戸が開いて光が差し込んで、本当にわきまえのない私たちですけれども、悟りが与えられるように主の御名で祝福をお祈りいたします。

 

まず第一番目に、律法が何かということを正しく知ることが必要です。この律法が何かということを正しく知らないと、イエス様を信じた今でもこの律法というものに縛られて、何かこうしなければという自分の行い中心の信仰生活、教会生活を送っている人がいます。この律法というのはモーセを通して神様がシナイ山で与えられた古い約束です。それでこの律法というのは前の戒めと呼ばれていました。

 

この律法というのはどういうものかというと、完全ではないと。律法が完全であるならば後の戒めなど全く必要ないわけですけれども、しかし律法は弱く、そして無益であると。律法をどんなに皆さんが守ろうとしたとしても、その努力とか行いには何の利益もないと。だから律法は何事も全うしなかったとあります。このことを正しく知ることです。「それゆえ律法は廃棄されました」とあります。律法は終わったということです。

 

律法が終わったということは祭司職も終わったということです。律法の中にこの祭司職というのが規定されていますから、この祭司職というのも完全ではないということです。もちろん神様が祭司を立てて、そしてその祭司の中から油を注いで大祭司を立てる、それはこの律法の中で神様が定められたものです。

 

しかしその神様は祭司職の中でレビ族以外のものを祭司と立てたとあります。メルキゼデクという人物はレビ族のそのような系譜ではありません。しかし神様はこのメルキゼデクを立てたということは、この祭司職というものが終わったということです。

 

この祭司の中から一人大祭司が選ばれます。大祭司が選ばれた時にはその大祭司の上に油が注がれます。神様が大祭司として立てたという証拠、それが油そそぎです。律法は弱さを持つ人間をこの大祭司として立てます。弱さを持つということはどういうことでしょうか。人間ですから罪を犯すということです。

 

それで自分の罪のためにも血を携えて、それから他の民のためにも血を携えて、この大祭司は至聖所に入らなければなりません。もし血を携えないで至聖所に入ってしまったならば、その瞬間この大祭司は死んでしまいます。死んだという証拠は、足首のところにこう紐がつけられて鈴がつけられています。歩いていれば鈴が鳴りますけれども、その鈴が鳴っていないということは至聖所の中で大祭司が死んだということです。

 

それぐらい神様が選んで立てられたそのような大祭司でもこの弱さ、死ななければならないというこのような大祭司です。死ぬことがあるために年ごとに一人ずつ神様が大祭司として働きをする人を選びますから、当然この大祭司の働きというものは人間を完全に救うことはできないということです。

 

これが律法というものです。これが律法なんですけれども、福音が正確に分からないと今でもこのような中で生活をしてしまうということがあり得ることです。神様はこの律法の後に誓いのみことばを与えられました。神様が誓いの与えられた誓いのみことばは何でしょうか。それは新しい契約を立てるということです。

 

新しいと神様が言われた時には、以前のもの、前のものはもう古いということです。それでこの新しい契約というものは一つもかけているというところがないということです。こちらはかけているために何事も成し遂げられませんでしたけれども、しかし新しい契約は全てを全うすることができる、そういう契約です。

 

それゆえにこちらは廃止されましたけれども、新しい契約は成就されました。マタイの福音書の5章の17節でイエス様が「私は律法を廃棄するために来たのではなく、この律法を成就するために来たのです」そのように言われました。このイエス様は神様がとこしえの祭司として立てられたからです。

 

つまりこの以前の祭司職というものは終わったということです。それが神様が誓われたということです。先ほど読んでいただいたみことばにありますように「主は誓ってこう言われた」。21節「みこころを変えることはない。あなたはとこしえに祭司である」。神様はこのことに対してみこころを変えることは絶対ないということです。この神様が立てられた祭司というのは絶対であり永遠に変わることがありません。その方がまことの大祭司となられました。

 

神様は誰をこの大祭司として立てたのでしょうか。ご自分の御子を立てられたとあります。ご自分のひとり子を大祭司として選んで、そして頭に油を注いでキリストとして立てたということです。この方が完全な大祭司であるという証拠は、創世記の3章の15節「女の子孫が蛇の頭を踏み砕く」。蛇はサタン、このように支配するものですけれども、その悪魔サタンに勝利するために来られるキリストは男の子孫ではなくて女の子孫である、つまり罪のない方であるということです。

 

罪のない方が大祭司として立てられました。以前の大祭司は罪を犯すというその弱さを持っていますから、自分の罪のためにも血を流さなければなりませんけれども、この方は自分の罪のために血を流すその必要がありません。全てのご自分以外の人のために十字架の上で血を流す、それはただ一度だけであるということです。

 

ヘブル人への手紙の7章の27節「キリストは一度だけ生贄となってご自分を捧げられました」。けれどもそのこと私たちは信じたわけです。しかし信じて神様から離れて行ってしまった、そういう人たちが、そのヘブル以前はユダヤ教の信者だったんですけれども、そのユダヤ教の信者からキリストを信じるようになった。しかし今迫害の中で自分が信じたこの信仰を捨てて元の宗教に帰っていったというような人たちがいるならば、キリストはもう一度来られて二度目の贖いを成し遂げてくださるということはないということを、このヘブル人への手紙の記者が書いています。

 

ただ一度だけであるということです。そしてただ一度だけですけれども、その働きは永遠であるとヘブル人への手紙の7章の28節「贖いは永遠に完成された」ということです。これが完全な救いということです。神様が与えてくださる救いというのは、そういう意味で中途半端な救いというものは決してありません。

 

ただ私たちの方で、自分がイエス様を信じたけれども、そしてイエス様を信じて受け入れて神様の子どもになったけれども、何か自分の中で問題が解決しないようなことがいっぱいあるという時に、大体その問題を解決しようと思ってその人はあちらに行ってみたり、こちらに行ってみたり、そのなんとかしようともがいてしまいます。

 

結局どこに行ったとしても解決しないと思うと、今度は諦めて途方にくれてしまう。もうこの問題は仕方がない、もう自分は天国に行けるだけでもいいと。本当は完全な救いを与えてくださっているのに、その自分が与えられている救いが完全であるってことが分からないからです。

 

エス様はどのような方でしょうか。イエス様はキリストです。つまりこの福音が分からないということです。信じているんですけれども、しかしその全体がどのようなものであるか分からないということです。キリストはまことの王ですから、詩編の2編の2節というところに「諸々の国の王たちが主と主に油そそがれたもの、キリストに逆らう」とあります。どんなに世界中の王たちが主とその油注がれた方キリストに逆らったとしても、この御座についておられる方はどうするのでしょうか。笑うと書かれています。笑っているだけです。なぜならば全てのものはご自分の足の下に置かれていますから。足の下に置かれているものがどんなに自分に敵対しようとしても、それは敵にならないということです。

 

黙示録で最後の戦いがあります。サタンとその下僕たちがキリストと神の国に向かって戦いを挑みますけれども、どれぐらいその時間がかかるでしょうか。一瞬です。一瞬でこのサタンとサタンのしもべたちはその神の口から出る一瞬の息を吹きかけられたら、もうそれで敵は終わりということです。そのイエス様がキリスト、まことの王でいらっしゃるということです。

 

そして詩編の68編11節、まことの預言者であるキリストはみことばを賜う。みことばを賜うということは、みことばをくださるということです。皆さんに必要なみことばを必要な時にその人にふさわしいみことばを与えてくださるという約束です。それが伝道者にとっては今日のみことばとなります。今日私にみことばをくださいと皆さんが朝目が覚めて祈る時に、まず最初の祈りが今日私にみことばをください。この祈りに対して必ず与えてくださる。それがまことの預言者です。

 

なぜならば人はパンだけで生きるのではなく、主の口から出る一つ一つのことばで生きるものとして造られていますから、みことばがないと私は生きていけません。それが本当の信仰者です。みことばがなくても生きていけるとしたら、ただ自分の勝手な道に向かっていくだけです。

 

聖霊の導きを本当に受けようと思う人、その人が最初にすることは何でしょうか。自分の考えを捨てることです。次にすることは何でしょうか。自分の好み、自分の感情を捨てることです。私はこれが好きだ嫌いだというものが誰もあると思います。自分のそういう好みに縛られていると神様のみことばが与えられても、それが神様のみことばだと分かりません。

 

自分の考えに縛られていると、その自分の考えに固執してどうしてもこれをしたいと、結局最後は「私のやりたいことを祝福してください」「私の好きなことを祝福してください」そういう祈りになってしまいます。それは逆であって、私の考え、私の好み、感情というものを十字架につけてしまった時に、その後に来るのがこのみことばです。

 

ですからなぜみことばが来ないんだろうと。神様の方ではもし今日み声を聞くならばと、もう準備してくださって皆さん一人一人に与えたいと思ってるんですけれども、その皆さんの方で心を閉じて私の考え、私の好み、感情というものに縛られていると、心の扉が開きませんから、みことばがその中に入ることができません。ですからなぜ今日みことばが与えられないのか、それはそのように自分が別のことに囚われている、そういう理由があるからです。

 

それでもう一つ、まことの大祭司であるキリストは詩編の110編の4節、本文の中にもありますけれども「あなたはとこしえにメルキゼデクの位に等しい祭司である」。レビ族のアロンの位でもなく、レビ族以外のメルキゼデクの位でもなく、このキリストの位、それはまことの本当の大祭司です。イエス様はこのようにしてキリストの働きをしてくださるために、詩編の中で預言され約束された通りに来てくださいました。

 

そのイエス様をキリストとして信じて心の中に受け入れる時に、何が起こるのでしょうか。

 

ヘブル人への手紙8章10節。ここで言われていることは、心と思いの中に神様のみことばが入ってくるということです。この律法というのはどういうものでしょうか。この律法というのは、外側から神様のみことばが教えられることです。十戒はこういうものであり、神様の戒めはこういうことだと外側から教えられることです。

 

人はなかなか外側から教えられたからといって悟るようなことはできません。むしろ「これは嫌だな、窮屈だな」とそのように感じます。なぜならば、自分が守れないからです。守れない戒めが与えられていますから、守ろうとしても絶対に不可能なことです。

 

ところが「律法をあなたがたの心と思いに書きつける」とあります。内側で「あ、神様はこういう方なんだ」と、イエス様をキリストとして心の中に信じて受け入れた時に、神のみことばが信じた人の中に入りますから、そのみことばが神様がどういう方かということを悟らせてくれます。

 

それで誰からももう外側から律法によって教えられなくても、内側からもうそのたましいが、その御霊が神様と出会って「あ、これが道だったんだ。今まで私は迷子の羊のようにさまよっていたけれども、あ、今私は神様のもとに帰ったんだ」というそのたましいの安らぎが臨むようになります。

 

それだけではなく、罪の完全な赦しが与えられます。ヘブル人への手紙8章12節、これは神様がなさることですから。どのようなことを神様がしてくださるかというと、あなたの罪をその血によってもう完全に思い出さないと神様の方で、どんなに私たちが数えきれないほどの罪を犯したとしても、神様は全て忘れてくださるということです。これが信じた皆さんに対する約束です。

 

そしてもう1つは、この方は大能者の御座の右につかれると、ヘブル人への手紙8章1節にあります。大能者の右の座に座されるということは、王の座に座されたということです。

 

そしてこの方がどこにおられるのでしょうか。コロサイ人への手紙1章27節、「あなたがたの中におられるキリスト」。イエス様をキリストとして受け入れたのですから、そのキリストが信じた皆さんの中におられて、このようにしてみことばをくださり、罪を完全に忘れてくださり、そして王の座について私たちを御座から招いてくださっています。

 

それで結論として、キリストは完全に救うことがおできになるので、ヨハネ福音書19章30節で「全ての問題は完了した、終わった」とそのように言われました。全ての問題が終わったということは、色々な問題があったとしても、ヘブル人への手紙1章14節、御座から天軍天使を皆さんに遣わしてくださるということです。

 

皆さんが苦しい環境や敵の前に例え置かれていたとしても、この天軍天使が遣わされたならば、その敵の軍勢は滅ぼされてしまいます。その信仰です。「あ、私は敵に囲まれても大丈夫だ」と。心の目が開いていないエリシャのしもべは朝目が覚めたら敵の軍に囲まれていました。「どうしたらいいでしょう。私たちはもうダメです」。心の目が開いていたエリシャは「恐れるな。私たちと共にいるものの方が、彼らと共にいるものよりも多いのだから」。全く敵の軍勢が取り囲んでいても、それは問題ではない。天軍天使がその後ろにまた取り囲んでいるから、一瞬のうちにこの世の軍勢というものは終わりますし、またサタンも悪霊もこの足の下に置かれていますから、問題はないということです。それからヘブル人への手紙4章12節、神のことばは生きていて力があり、どれぐらい働いてくださるのでしょうか。神のみことばがたましいと霊に入ったら、私たちは死からいのちに移されました。その心と思いに入ったら、神の平安があなたがたの心と思いを支配するようになります。その肉体に入ったならば、私たち病んでいる体が癒されるようになります。

 

例え悪霊がその人の中に出たり入ったりしていたとしても、キリストの御名によって命じる、サタンもまた悪霊も出ていけと。そのように権威を使って命じたならば、この神様のみことばの権威で悪霊もサタンも退く以外にありません。

 

もう1つのことです。まことの大祭司としてしてくださることは、7章の25節、結論としてこのみことばを読んでみたいと思います。「従ってご自分によって神に近づく人々を完全に救うことがおできになります。キリストはいつも生きていて、彼らのために取りなしをしておられるからです」。キリストがいつも取りなしていてくださる、皆さん1人1人のためにキリストが取りなしていてくださる、これで十分ということです。

 

具体的な例を最後にお話して終わりたいと思いますけれども、イエス様が十字架につけられるその直前に、シモン・ペテロに対してイエス様はこう言いました。「サタンがあなたがたを麦のようにふるいにかけて不信仰にさせます。しかし私はあなたの信仰がなくならないようにあなたのために祈りました。それであなたは立ち直ったならば兄弟たちを助けなさい」と、前もってイエス様はこのようにペテロに伝えました。

 

でイエス様がおっしゃったそのみことばのように、サタンにふるいにかけられてしまいました。ペテロは「私はあなたを知らない、イエス様と私は何の関係もない」と完全に不信仰になりました。ペテロだけではなく他の人たちもみんな逃げていってしまいました。そのような中でイエス様が十字架の上で命を捨てて大祭司の働きを成し遂げられました。

 

そして3日目に死者の中からよみがえられて御座に着座されました。御座に着座されたイエス様は、前に約束されたようにもう1人の助け主を御座から弟子たちに遣わされました。それがマルコの部屋で起こったことです。タラッパンで起こったということは、この神様の契約を握っていた1人1人に五旬節の日になって聖霊が臨んだということです。聖霊に満たされたそのペテロは、「主を知らない」と少し前にそのように裏切ったのにも関わらず、「イエスはキリストです」と大胆にあかしをしました。そして3000人の人たちがその日イエス様をキリストとして信じて受け入れて弟子の中に加えられました。

 

このようにしてペテロは、自分は本当に自分の信仰でさえも「私は死んだとしてもついていきます」とそのように人間が感情的に熱心に告白する、そういう告白は当てにならないということです。人間の中にあるものは良いものなど1つもありません。それをイエス様はご存知です。ですから自分の中に何かがあるから神様のために働ける、私はその自分の中にある信仰で頑張るんだと、そういう風に思った信仰でさえもなくなってしまいます。

 

なくならないのはなぜでしょうか。イエス様が御座について皆さん1人1人のために取りなしていてくださるということです。どのような状況に皆さんが今置かれていたとしても全ての状況をご存じで、場合によっては御使いをそこに派遣してくださり、また場合によってはみことばを与えてくださり、「恐れるな、私があなたと共にいる。たじろぐな、私があなたの神だから」この御言葉がその恐れている人に臨んだだけでも恐れは閉め出されますから問題は解決します。

 

「ああ、私はもう信仰がなくなってしまった」と、例えペテロのようにイエス様を知らないとそのように否定したとしても、その信仰がなくならないどころか、その信仰が完全に回復する。その理由は皆さんには全く関係ないということです。自分が失ってしまった信仰を自分が回復するなどということは、それは不可能なことです。御座についておられる方がまことの大祭司として皆さん1人1人のために今も生きていて取りなしてくださるので、その取りなしによって皆さん1人1人の信仰が今日も生きて働くということです。

 

今日恵みを受けるためにこのようにして恵みの御座に近づいているということは、皆さんが抱えている問題がどのような問題であったとしても、その問題に対して完全に救うことができる方、その方がキリストですから、本当にイエス様をキリストとして信じたということは、今どんな問題を抱えていたとしてもそれは問題ではないということです。

 

その問題と思えるようなものは、場合によっては福音を知る機会であったり、その問題と思えるようなものは、その問題の裏側には神様の祝福が隠されていたり、思いもよらないようなそのような神様が働いてくださるので、私たちの肉の目で見て問題だ問題だと私たちは不信仰になりますけれども、御座についておられる方は私たちのためにいつも生きていて今も取りなしていてくださいます。

 

それゆえまことの大祭司が全ての問題を解決してくださった。王も預言者も全ての問題を解決してくださる。このような信仰に立つ皆さん1人お1人となりますように主の御名で祝福をお祈りいたします。

 

父なる神様、御座についておられる方と子羊とに全ての栄光とほまれと賛美を捧げます。今日も私たちは恵みの御前に出ています。折りにかなう助けとなる恵みを1人1人に与えてくださることを信じます。イエス様の御名によってお祈りいたします。アーメン。




【書き起こし】2024年10月20日 主日礼拝メッセージ『神の誓い』(ヘブ6:13-20) 

2024年10月20日 主日礼拝メッセージ『神の誓い』(ヘブ6:13-20) 

YouTube

https://www.youtube.com/watch?v=X1hf5Uak04Y

 

"神は、アブラハムに約束されるとき、ご自分よりすぐれたものをさして誓うことがありえないため、ご自分をさして誓い、

こう言われました。「わたしは必ずあなたを祝福し、あなたを大いにふやす。」

こうして、アブラハムは、忍耐の末に、約束のものを得ました。

確かに、人間は自分よりすぐれた者をさして誓います。そして、確証のための誓いというものは、人間のすべての反論をやめさせます。

そこで、神は約束の相続者たちに、ご計画の変わらないことをさらにはっきり示そうと思い、誓いをもって保証されたのです。

それは、変えることのできない二つの事がらによって、--神は、これらの事がらのゆえに、偽ることができません--前に置かれている望みを捕らえるためにのがれて来た私たちが、力強い励ましを受けるためです。

この望みは、私たちのたましいのために、安全で確かな錨の役を果たし、またこの望みは幕の内側に入るのです。

エスは私たちの先駆けとしてそこに入り、永遠にメルキゼデクの位に等しい大祭司となられました。"

ヘブル人への手紙 6章13~20節

 

今みことばで読んでいただきましたように、神様がアブラハムに誓われたというのが今日のメッセージの中心です。神様が誓われた誓いというのは絶対的な誓いですから、それは必ず時刻表が来たら成就するということです。

それと反対に、人間の誓いというものを考えてみるとどうでしょうか。今日このようなメッセージをするということで、私たちは結婚式の時に誓ったことを覚えていますか、とそういう質問をしました。妻は覚えていないとそういう風に言いました。私も覚えていないんです。なぜ2人とも覚えていないのでしょうか。多分それは2人でアメリカで結婚式を挙げて、その司式をした方が英語で司式をしたからではないかと思います。ですから結婚式を挙げたということは覚えていても、その結婚式でどういうことがあったのかということは何1つ覚えていません。

結婚式を挙げる時に、必ず司式者は病める時も健やかな時も、また貧しい時も豊かな時も、というようなことを誓いますかと聞きます。それは相手がどんな状態になってもその誓いを果たしますか、というそういう意味ですけれども、そこでどんなに人間が誓いますと言ったとしても、その誓いは破られてしまいます。

というのは、日本でキリスト教式で結婚式を挙げるほとんどの人は未信者ですから、その未信者の人にとって父と御子と聖霊三位一体の神様がどういう方か分かりませんから、分からない神様を指して誓うということ自体が矛盾ですし、また場合によってはそこで司式をする牧師が偽物の牧師がいます。結婚式専用の牧師もいるようですから、そのような結婚式を挙げるということは、言い方悪いですけれども、ただの結婚式ごっこしているようなものですから、それは仕方ないと思います。

クリスチャン同士の結婚式が挙げられたならばどうでしょうか。やはり三位一体の神様を信じていますけれども、実際に結婚生活をしてみると想定外と思えるような問題とか苦しみが来るかもしれません。忍耐して我慢してというようなことをお互いにしていたとしても、もうダメだと仕方なく離婚してしまう、そのようなクリスチャンの方もいらっしゃいます。

絶対に離婚しないクリスチャンという人がいるならば、どんなに大きな問題が例え来たとしても、イエス様はキリスト、全ての問題の解決者と、このように福音に結論を出している夫婦であるならば、それは離婚は問題ではないと、離婚という選択肢がその夫婦にはありえないことですから、必ずその問題に対して勝利するようになります。

私たちが誓うということがあるとすれば、それは結婚式ともう1つは裁判に証人として呼ばれた場合です。裁判に証人として呼ばれた時にも誓わなければなりません。その誓いが嘘だった場合は偽証罪になってしまいます。例えそうなったとしても、そこで偽りの証言をする人がいます。なぜでしょうか。それは自分に不利になるようなことは、偽りの父である悪魔から生まれたそのような人間にとっては、当然できることであるからです。

神様にできないことは何でしょうか。それは偽りを言うことです。神様は偽ることがお出来にならない方です。それで神様がおっしゃったその言葉、その約束は必ず成就するということです。

まず第1番目に、神様の約束がアブラハムに与えられました。創世記の12章1節から3節です。神様はアブラハム個人を祝福する、とそのように約束されました。どうすればアブラハムが祝福を受けることができるようになるのでしょうか。一言で言うならば、偶像から離れなさいということです。

アブラハムの生まれ故郷、それから父の家にあるものは皆偶像でした。生まれた時からアブラハムは偶像に親しんでいる、そのような環境の中で育ちました。そのようなアブラハムに対して、偶像からキリストに向け向きを変えなさい、これが神様のことばでした。私が示す約束の地に行きなさい。アブラハムはただ信仰だけで、ヘブル人への手紙の記者の言葉で言うならば、行き先を知らないで出ていったとあります。それがアブラハムの信仰でした。そのことによってこのアブラハムに対する約束が成就します。

アブラハムの家庭に祝福が臨むようになりました。家庭とアブラハムの家系です。アブラハムの家系も偶像から離れました。偶像に必ず臨むもの、それは何でしょうか。それは呪いと災いです。これは必然的に絶対的に来るものです。日本の国というものが、この八百万の国々の偶像に囲まれている、そのような国ですから、なぜそのような呪いと災いが起こるのか、99%の異邦の人々は分かりませんけれども、原因はここにあります。

 

偶像から離れ、アブラハムと同じようにキリストに向かったならば、必ず祝福がその家庭、家系に臨むようになります。呪いは3代4代が偶像礼拝の呪いですけれども、この祝福は千代に至ります。神様はこのようにしてアブラハムの家系を祝福されました。それは今でも続いているということです。

 

そして家系だけではなく、全ての民族はあなたによって祝福される。アブラハムの子どもはイサクであり、イサクは種を蒔いたら100倍の収穫を得たとあります。その子どもはヤコブです。ヤコブは1本の杖だけを持って自分の家を出た時に、2つの宿営を持つものとなった。12人の子どもが与えられ、12部族の父となりました。

 

ヨセフは奴隷でしたけれども、その奴隷となったヨセフが無実の罪の故に牢に入ったことによってエジプトの総理となりました。それは当時の飢饉で苦しんで死んでいくそのような人々を生かす、神様のそのようなご計画の故に、ヨセフは「あなた方より先に神様が私をエジプトに遣わしたのです」とそのように告白しました。

 

それで世界全ての民族です。237か国というのは全ての国ですね。それから5000種族、それから7000の専門分野の働き人、それら全て、世界はアブラハムの子孫によって祝福される、これが神様の約束です。なぜならばアブラハムは祝福の源という、あなたによって全てが祝福される、このような身分が与えられたからです。

 

アブラハムが何か努力して祝福を受けるようになったとするならば、それはアブラハムの力ですけれども、しかし聖書はこの祝福の源となるという約束は行いによるのではないとあります。アブラハムには何の行いもなかったとあります。何の行いもないのに一方的に神様が「あなたを祝福する」「あなたを大いなるものとする」、これが神様の約束です。

 

この約束を本当に握った人は、「私は何もしていません。私は努力したのでもなく頑張ったのでもありません。ただ神様が私を呼んでくださった。そして呼んでくださって約束してくださった。その約束が成就したんです」と、全ての栄光を神様に捧げるようになります。何かしら自分で頑張ったとか努力したという思いがその人の中に少しでもあるならば、99%は神様の栄光であったとしても、1%は私がやったんだと、そういう風に自分の何かしたことがあると思うと誇ってしまいます。しかし神様は約束を成就される方ですから、アブラハムは何1つ自分が何かをしたということを誇ったことはありません。

 

むしろアブラハムは自分が不信仰だった、嘘をついたり人本主義を使ったりというようなことを繰り返していた人間ですから、どれほど神様の前に恥ずかしい思いをしたのかという、そういう人物です。ですからアブラハムに栄光を捧げるということは全く違った見方であって、アブラハムの素晴らしいところはどこかと言うと、それはただ信仰だけです。その信仰というのは神様の約束を握ったということです。

 

このようにして神様がアブラハムに約束されたその約束は75歳の時だったとあります。75歳でこの約束が臨んだ時に、実際にその家系に子どもたちが与えられなければなりません。アブラハムの妻サラは不妊の女で、子どもを生むことができない、そのような状態でした。

 

それでアブラハムもサラも、自分たちは子どもは産めそうもないと言って、女奴隷ハガルによってイシュマエルという奴隷の子を生んでしまいました。神様のこの約束を待ち切れなかった結果でした。それでそのような失敗をした時に、神様のことばが止まってしまいました。17年ぐらいだったでしょうか、神様のことばがアブラハムに聞こえなくなってしまった。その時に再び神様は「私は全能の神である」とご自身を顕しました。

 

全能の神であるということは、不可能なことは1つもない。あなたに子どもが生まれる、その約束の通りに1年後にアブラハムに子どもが生まれました。それは100歳、アブラハムが100歳の時でした。どれほどこの約束が1つ実現するためにアブラハムが忍耐したことでしょう。25年間忍耐したということです。25年間もの間忍耐して待ち望んで与えられた子どもが、約束の子イサクでした。奴隷の子ではない約束の子が生まれました。

 

ところが神様が2番目にアブラハムに誓われた、その誓はどのような中で神様がアブラハムに誓ったのでしょうか。それは、神様はまずアブラハムに試練に合わせたとあります。創世記22章の1節、この試練というのは「あなたの愛するイサクを捧げなさい」ということでした。

 

自分の1番愛するものを捧げるということ、それが人間にとって1番大きな試練です。自分にとってお金があまり価値がないと思う人にとっては、もし1億円以上あったとしても、その1億円を捧げなさいと言われたら、それは自分にとってそんなに価値がないので捧げることができます。あるいは子どもであるとか妻であるとか、自分にとってそんなに価値がないと思う妻や子どもならば、いくらでも捧げることができます。「どうぞ殺してください」と「構いません」と。

 

人は自分が1番大切だ、宝だと思っているもの、それを捧げることは難しいことです。試練というのはそういうことです。神様を愛しているか、それともこの世の何かを愛しているかということが試されること、それが試練の本当の目的です。神様は人の心をご存知ですから、皆さん1人1人が何を1番宝にしているかということを知っておられます。知っておられた上で、その宝を捧げなさいと、そのように言われます。

 

アブラハムは神様のことばに従ったとあります。それは自分の1番大事な宝を神様に捧げたということです。神様もそのことをご存知です。「あなたは自分の愛する独り子イサクをおしげもなく私に捧げた」と神様もそれを認めておられます。それでその後に神様の誓いが来たということです。

 

創世記の22章の16節、「私は自分にかけて誓う」。人間が誓う時には神様にかけて誓います。ですから神様に本当は誓う以上は父と御子と御霊なる三位一体の神様と知った上で誓わなければ本当の誓いにはなりません。しかしここで神様はご自分よりも優れた存在はないために、自分を指して誓ったとあります。その誓いはどういう誓いでしょうか。神様が誓われたのは「あなたの子孫によって」ということです。

 

創世記22章の18節、この「あなたの子孫」。神様が約束されたこのアブラハムの子孫の中にキリストが来られるということです。それは敵の門をうち砕くものであります。神様を知らない人間にとって敵というと、自分に敵対する人間、そのような意識で私たちは今この世の中で生きています。あの人が敵、あの人も敵というように人間を敵としますけれども、本当の敵は悪魔です。

 

それで聖書にも「あなたがたの敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、食い尽くすべきものを探しながら、歩き回っています」とあります。今もこの時間も悪魔は歩き回って、そして不信仰にさせようと、この神様が約束されたこの約束に対して信じないようにさせようと、自分で何とかしてしまおうとか、待ち切れないとか、そういう風にして人はこの約束を信じられないようにする、それは背後に悪魔が働いているということです。

 

それから「あなたの子孫によって」というのは、アブラハムの子孫を祝福するということです。アブラハムだけが祝福の源ではなくて、アブラハムの子孫1人1人はこのアブラハムに与えられたこの約束は自分に与えられた約束と同じだと、そのように信仰を持って握っていますから、アブラハムの子孫によってこのアブラハムの約束が成就するようになります。

 

それは3番目に神様の計画が成し遂げられるためです。神様の計画は何でしょうか。世界が始まる前から、天と地とその中にある全てのものが造られる前から、神様はご自身のひとり子、その方を「ほふられた子羊」としたとあります。つまり創世記3章で人間が神様に背いて罪を犯して、この敵である悪魔に支配されるようになる前から、神様の方では全ての問題の解決を準備しておられたということです。それが神様の計画の始まりです。

 

そしてキリストを遣わす、このように約束されました。このキリストとして遣わされる方は、創世記3章の15節、「女の子孫が蛇の頭を踏み砕く」。この蛇の正体は悪魔という敵ですから、この女の子孫が来たならば、この敵の門が砕かれるという、この約束が成就します。

 

それから出エジプト記の3章の18節、罪の問題に対しては血が流されなければなりません。それで神の子羊として血を流すということが前もって預言されました。そのことによってイザヤ書の7章の14節、創世記3章で神様から離れたその全ての人々に、神様が「私と共におられる」という、そのインマヌエルの道が開かれるという、キリストが来たならば、このような働きが成し遂げられるという約束です。

 

そしてこの来るべき方として神様が約束したその方は、その名をイエスとつけられました。マタイの福音書の1章の1節、この「アブラハムの子孫、ダビデの子孫イエス・キリスト系図」。このイエス様は肉の系図としては、アブラハムの子孫として来られた方です。

 

それでイエス様はまことの大祭司となられましたと、今日の御言葉にありました。ヘブル人への手紙の6章の20節、メルキゼデクと等しい大祭司と唱えられました。つまり動物の生贄ではなくて、女の子孫として罪のないご自分のからだから血を流すことによって、完全な罪のなだめが成し遂げられました。神様の御怒りは罪に臨みます。私たちは罪を持って生まれてきましたから、生まれた時から神の怒りを受ける、そういう1人1人でした。しかしイエス様が十字架の上で罪のないからだから血を流してくださったことによって、完全な罪の許し、結果、呪いと災いは過ぎ越していきます。それが祝福を受けたということです。

 

エス様は大祭司だけの働きではなく、王としても働かれました。ヘブル人への手紙の2章の14節、この悪魔という死の力を持つものを十字架の死によって滅ぼしてくださいました。私たちは悪魔の支配の中で奴隷になっていました。そこからまことの王が解放してくださったということです。もはや神の子どもとなった1人1人、悪魔に支配されていませんから、また悪霊に支配されていませんから、私たちは完全な自由と解放が与えられているということです。

 

それからキリストの働きはもう1つ、まことの預言者です。ヘブル人への手紙の10章の20節、イエス様のからだが十字架の上で裂かれた時、いのちを捨てられた時、神殿の幕が真二つに引き裂かれて、聖所から至聖所に入るその道が開かれました。そのことが意味していることは、神様のことばから創世記3章で離れましたから、離れた神様のことばのもとに私たちは戻ったということです。つまり救われた人、永遠の救いの与えてられている人には、そのたましい、その霊に神のことばが刻印されています。

 

「あ、私はこの御言葉によって救われました」と、その救いの保証、救いの根拠を、自分がそう感じますとか、そう実感しますとか、そんな適当な自分の感覚では、救いの保証となるものは根拠がありません。永遠に変わることのない神のことばがそのたましいと霊に臨んだために、「あ、私は今までは自分勝手な道に向かっていった羊のように迷子だったけれども、今は大牧者である神のもとに帰ってきました」。

 

その道を開いてくださったのがまことの預言者であるイエス様です。ですからイエス様がキリスト、これが福音です。それでイエス様はこの福音を全世界に述べ伝えなさいと言われました。マルコの福音書の16章の15節、「それ故であなたがたは、すべての造られたものにこの福音を述べ伝えなさい」。これがミッションです。

 

このミッションを果たすことができる人は誰でしょうか。それがアブラハムの子孫であるということです。ガラテヤ人への手紙の3章の29節、「もしあなたがたがキリストのものであるならば」と言われました。キリストのものであるということは、この十字架の死、十字架の血によって代価を払って買い取られたということです。買い取られた人はもはやこの世のものではないし、悪魔のものでもありません。

 

かつては私たちは皆、悪魔の支配の中で制せられたであり、またこの世の流れに従いながら、この世のもののような、そういう生き方をしていました。しかし代価が払われて、キリストのものとして今は買い取られたものですから、キリストのものであるならば、あなたがたはアブラハムの子孫だとあります。アブラハムの子孫であるならば、あなたがたは相続者である。神様が与えてくださる全ての祝福を受け継ぐもの、それが相続者です。

 

神様の全ての霊的な祝福が備えられていますから、その全ての霊的な祝福を毎日味わいながら生活しているとどうなるのでしょうか。その人は上から力を受けて証人となります。自分が見たこと、聞いたこと、私の中にあるものをあなたにあげよう、と。自分の中にあるものは、今まで自分が宝だと思っていたもの全部を捨てたとしても、ちっとも惜しくない。キリストが私の中に内住して、キリストが私の宝ですから、その宝が自分の中にあるということを毎日味わい、「私は弱いけれども、私を強くしてくださるキリストの力によって、私は労苦しながら奮闘しているのです」というように、神様の計画の中にその人は入ることができるようになります。

 

「あ、私は以前は何ものでもなかったけれども、しかし今、私は契約によるアブラハムの子孫だ。私によって全ての人は祝福を受ける。そのような人々に、死んでいる人々に、死からいのちをもたらすこの良い知らせ、福音を伝えるものである」という、その自分が何者なのかということが正確に分かりますから、その人を通して神様はご自分の働きを成し遂げることがおできになります。

 

それで皆さん1人1人がアブラハムの子孫であるというこの契約を握るということは、神様の誓いが皆さんに成就するということです。なぜならば、それはアブラハム個人に与えられた誓いだけではなくて、アブラハムの契約を自分のものとする、聖書のみことばで言うと、信仰による人々、すなわちアブラハムの信仰に倣うそのような信仰者に、神様の誓いは成就するということです。絶対に神様はご自分が誓われたその誓いに対して偽ることがおできになりません。大事なことは、その神様が私に対して誓われているんだということを握れるかどうかということです。

 

握ったならばどうなるのでしょうか。船が嵐の中でグラグラと動く時に、その船が錨を海の中に下ろしたらどうなるのでしょうか。その錨の重さによって船は固定されるようになります。それと同じように、この誓いを握ったその人は信仰に固く立つことができるようになります。この岩の上に私の教会を立てますと言われます。岩は絶対に揺れません。その岩の上に皆さんが立ったということは、今度はこの希望は失望に終わることがありません。絶対に落胆したり、あ、私はもうダメだというような希望を失うようなことはありません。なぜならば、キリストが預言者、大祭司、王として全ての問題を十字架の上で完了した、終わらせてくださっているからです。

 

このような信仰に立つ皆さんお1人お1人となりますように、主の御名で祝福をお祈りいたします。父なる神様、恵みを感謝いたします。永遠に変わることのない神様の約束に今日も信仰に固く立つことができるように、みことばが釘のように1人1人の心の板に打ち込まれる、そのような時となりますように。イエス様の御名によってお祈りいたします。アーメン。