新宿キリスト教会ブログ

今まで一度も福音を聞いたことのない方へ

【書き起こし】2024年12月29日 主日礼拝メッセージ『キリスト信仰に伴う豊かな報酬』(ヘブル11:5-6)

2024年12月29日 主日礼拝メッセージ『キリスト信仰に伴う豊かな報酬』(ヘブル11:5-6)

https://www.youtube.com/watch?v=tqV6Ai2kM40

 

"信仰によって、エノクは死を見ることのないように移されました。神に移されて、見えなくなりました。移される前に、彼は神に喜ばれていることが、あかしされていました。

信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです。"

ヘブル人への手紙 11章5~6節

 

この年最後の礼拝となりましたけれども、神様の御前に賛美のいけにえが捧げられました、暗闇の力が打ち砕かれ、神の国が臨み、神様が一番喜ばれるいけにえ、それは賛美のいけにえです。主の栄光が現れる、そのような礼拝となりますように共に祈っていただきたいと思います。

 

世の中では今年収103万円の壁ということが言われています。その壁は間もなく崩れるでしょうけれども、教会には伝道と宣教が50年の壁というものがあります。つまり今まで2000年にわたるキリスト教会の歴史の中で伝道運動が始められたことは何度もありますけれども、しかし50年を超えて伝道運動が続いている、続いたということはないという意味です。

 

例えばイギリスでメソジスト運動というものが起こりました。18世紀のことです。その運動は本当にイギリス国内を変えるほどの大きな働きになりました。世界に宣教師が遣わされましたが、しかしその運動も50年を超えることはなかったということです。リバイバルであるとかそのようないのちの運動が起こります。その運動が大きくなるとやがて組織化されていきます。そして組織化されると、それがいつの間にか形骸化、かたちだけのものになって、最初にあったいのちの運動、力の運動というものが消え去っていってしまうということです。

 

タラッパン伝道運動は今から35年ぐらい前でしょうか。柳グァンス牧師がイエスはキリストというこの初代教会の宣べ伝えた福音を神様の恵みによって悟り、そしてこの伝道運動が始まりました。残る15年というのがその今までの教会の歴史を変えるかどうかということの鍵となります。つまりこれから10年15年の間にこの伝道運動のバトンを受けるそのような次世代が立つかどうかということです。

 

1つの伝道運動が50年を超えないということは、大体1人で終わってしまうからです。後継者が立てられないとその伝道運動が終わってしまいます。切り株と私たちが呼んでいるそのレムナント、今どれぐらいのレムナントがいるか分かりませんけれども、そのレムナントの中から1人立てばいいわけです。この伝道運動を受け継いでいくそのような8番目のレムナントが今必要とされています。

 

神様はこの伝道運動を喜んでくださるならば、どこかにこの伝道運動のバトンを受けるそのようなレムナントが隠されていると私はそのように信じています。というのは日本の1%の壁というのもあります。この1%の壁もプロテスタントの宣教師が日本に来られてから160年ぐらい経ちますけれども、まだ破られていません。

 

もし日本の1%の壁が破られるとするならば、この日本の中にイエス様がキリストというこの初代教会のこの正確な福音が証しされていく、それが鍵だと思っています。ですからこの運動が神様に喜ばれる運動であるならば、それは人間が何かをするということではありません。キリストを信じる信仰を持ったその後継者が日本に起こされるということです。

 

道宣教は人間の働きではありません。これは神様の働きです。そして神様はご自分が計画したその働きを必ず完成させてくださる、これが約束です。人間の働きであるならば途中で中断したりストップしたり、あるいは火が消えてしまうということがいくらでもあります。しかし神様が始められたその計画は、絶対に途中で中止してしまったり終わってしまうということはありえないことです。

 

だから必ず神様はご自分の計画を成し遂げてくださいます。そのような信仰を持つ人が必要であるということです。ヘブル11章の信仰の英雄たちを見ていますけれども、その信仰の英雄たちは皆自分の力とか努力とか行いというものでなしたのではなく、ただ信仰によってというのが全員に共通していることです。

 

働きの分野は様々ですけれども、ただ信仰によってということだけは皆同じですから、皆さんもただ信仰によってこの福音が本当に素晴らしいということを知り、体験し、味わったならば、神様に用いられる、そのような働き人となると信じています。

 

今日はキリスト信仰に伴う報酬ということですけれども、神様が豊かな報酬を準備していてくださいます。それはエノクがそうであったということが今日のメッセージです。

 

それでまず第一番目に、エノクという人はどのような人だったのでしょうか。何の働きもなかった人です。エノクは何かしたということが1つも述べられていません。そのような意味では全くアブラハムと同じです。アブラハムも何の行いもなくとありました。アブラハムが何か神様のためにこんなことをしたというその業績があったとすれば、もしかするとアブラハムは自分を誇ってしまうかもしれません。しかし何1つアブラハムは行いがなかったために誇ることがありませんでした。

 

エノクもまた1つも誇るようなことがありませんでした。エノクの生涯を見ていくと、まず神様から離れていた、そのような離れたそのような時がありました。それは65年間だとありました。65歳まで神様のことを知りませんでした。この65歳になった時にエノクの人生にターニングポイント、人生をBCとAD、キリスト前とキリスト後に、そのように2つに綺麗に分かれるようなことがこのエノクの生涯に起こりました。それは子どもが生まれたということが記されています。

 

大体の人の場合は、キリストを信じる前はこういうことをしていたけれども、ある日キリストを知って、そしてこのように変わったということが書かれていますけれども、エノクがどのようにしてキリストを知るようになったのか、神様の存在を知り神様を求めるようになったのか聖書に書かれていません。ですから私たちも想像はできますけれども、聖書がそのことを隠しているということは私たちも知らなくても問題はないということです。

 

確かに神様から離れた65年があり、そして65歳の時に子どもが生まれたということが何らかのきっかけとなりました。もしかすると子どもを与えてくださいと祈った祈りの答えが与えられたとか、子どもが生まれたその神秘的なその誕生というものを見た時に、これは神様が自分に与えてくださった神様からの賜物、そのように色々な意味で神様が存在するんだ、その神様が私に報いてくださったんだというようなことを経験したのかもしれませんけれども、それは一切不明です。

 

神様から離れた65年と神と共に歩んだ300年があったということです。そして合わせるとエノクの人生は365年だったということです。その前後はただ生まれて死んだ、生まれて死んだということの繰り返しです。今のほとんどの人たちも皆神様から離れていますから、生まれて死んだ、生まれて食べて死んだその繰り返しです。しかしエノクの場合は神が天に移されたとあります。ある日突然エノクがこの地上の生涯から姿を消して見えなくなってしまいました。

 

日本ではそのような時に神隠しという言葉があって使われる人がいるようですけれども、神様が隠したのでその人はいなくなってしまったと、そういう風に神様を信じない人はそのような表現を使う以外にありませんけれども、しかし聖書はそうではなくて神様がエノクを移したと書かれています。

 

それでどこに移したのでしょうか。それは御座に移されたということです。ヘブル人のその考え方は1番下の第一の天というものがあります。この第一の天というのは創世記の1章の1節、初めに神が天と地を創造した、ですから神様に造られた地があります。ここに私たち、エノクも地球ここにいたということです。

 

詩編の19編の1節には「天は神の栄光を語りつげ、大空は御手のわざを知らせる」とあります。私たちが今日も青空が輝いていますけれども、この大空を見た時にこれは神様の手によって作られたそういう世界だと、神のことばによってこの世界が造られたとありますから、目に見えない神様のことばが「光をあれ」とそのように発せられると光が造られ、神様が6日の間にこの天と地とその中にある全てのもの、私たち人間をも創造されました。エノクもそのような1人です。

 

しかしこの神様が造られた人間とこの世界というのはどういう世界でしょうか。それはヘブル人への手紙の9章の11節、このところに神様によって造られた被造物ですから、全ての私たちが今目にしている被造物はやがて古びてそして滅びていくということがもう言われています。そういう意味でこの世界は虚像というように表現しますけれども、やがては消え去っていくそのような世界であるということです。

 

この上のところに第二の天というものがあります。そして1番上が第三の天です。第三の天には何があるのでしょうか。そこにはシオンの山があり、そして神の都があります。神の都です。そのところに生ける神の都には天にあるエルサレム、そしてそこに御座があります。御座というのは神様がおられるところ、それが御座です。神様は御座におられてその右の座にほふられた子羊、神のひとり子がおられるとあります。

 

ステパノが殉教する直前、天が開けたとあります。この第一の天が開かれ、第二の天が開いて第三の天が見えたということです。間もなく自分は殉教の死を遂げようとしていますけれども、この御座にイエス様が立っているのが見えたとあります。つまり心の目が開いた時にこの目に見えない世界が見えるようになるということです。

 

そういう意味でこの地上が虚像であるというならば、ここは実像の世界です。実像の世界というのは創造に属さない永遠の世界のことです。そしてこのところにキリストがおられて、そして御座からいのちの川が流れ、そしていのちの木が両岸に植えられています。この御座の前に誰がいるのでしょうか。無数の御使いがここに膝づいて、御使いは皆御子の前にひれ伏せ、ここで栄光とほまれと賛美を御座におられる方に捧げています。

 

それからここに何があるのでしょうか。教会があります。天に登録されている長子の教会とあります。つまりこのところに皆さんがイエス様がキリストであるということを信じているということは、今皆さんの霊的な現住所はここであるということです。

 

地上はこの地においてはこの建物の会堂の中ですけれども、同時に長子たちの教会、天に登録されている皆さんがいのちの書に名前が記されているならば、ここにいるということです。「御座に座らせてくださいました」このみことばの通りに今霊的な世界がありますから、このエノクはこのところに引き上げられた、移されたということです。

 

他にこのようにして移された人はエリヤです。エリヤは火の戦車と火の馬に乗ってこの天に帰っていきました。このところにイエス様がおられますから、イエス様がおっしゃった言葉は「あなた方は心を騒がせてはなりません。神を信じなさい」と言いました。「私はあなた方のために場所を用意しに行くのです。そしてこの神の国、神の都に皆さんのための場所ができたならば、また来てあなた方をこのところに迎えます」とそのようにおっしゃいました。つまり地上の生涯が私たちが終わる日、それはこのところに移される日ということです。

 

そういう意味で地上の人生が終わるということは何の問題もありません。ただ場所が変わるということだけです。むしろ場所が変わった方がその人にとってはもっと幸せです。なぜならばこのところに移された時にはもう病気とか苦しみとか悩みとか叫びとかそういうものは一切ないからです。さっき賛美を捧げられたようにここでは御座についておられる方と子羊とに永遠に栄光とほまれと賛美が捧げられています。

 

ですから何も問題がありません。地上の人生を私たちが肉体を持って生きているということは色々な問題の連続です。もちろんそこにも神様のご計画があり神様の祝福がありますから何も問題ではありませんけれども、しかしやはり肉体の痛みとか苦しみとか、また寂しい心とか精神の寂しさとか、やはり人間ですから弱さを持っていますので、そのようなものは避けられませんけれども、しかしここに行けば何の問題もありません。そのようなところに神様はエノクを移されたということです。

 

ヘブル人への手紙の11章の5節、「信仰によってエノクは死を見ることがないように移されました。神に移されて見えなくなりました。移される前に彼は神に喜ばれていることが証しされていました。」このようにしてエノクの地上の生涯が365年で終わって、そしてこちらにいるということです。

 

それで3番目に、信仰というものには必ず報酬が伴うということです。6節「信仰がなくては神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることを信じなければならないからです」これがヘブル人の手紙の11章の6節。信仰に報酬があるということは反対もあるということです。不信仰ということです。

 

不信仰にはどういう報酬が来るのでしょうか。ローマ人への手紙の6章の23節、罪から来る報酬は死です。全ての人が罪を持っています。神から離れたということが全ての罪です。全ての人は神様から離れてこの世に生まれてきます。それで全ての人が罪を持っているので、その報酬である死を免れることができません。

 

しかしイエス様がこの十字架の上で血を流して死んでくださいました。そして3日目に蘇られました。そして今イエス様は御座について栄光とほまれの冠を受けておられます。この福音、私たち人間にとって素晴らしい喜びの知らせが宣べ伝えられてきます。その時に罪とは何でしょうか。ヨハネ福音書の16章の9節「私を信じないことが罪です」とそのようにイエス様がおっしゃいました。

 

つまりもう全ての人のあがない、赦されるために十字架が立てられました。そのキリストの十字架を信じない、もうあなたのために全ての問題が解決していますと言っても「私は信じません」というのが、この罪ということです。ですからこの罪から来る報酬はただ死というだけではありません。ハデスの門とあります。マタイの福音書の16章の18節、ハデスというのは死んだ人が最後の審判を待つそのようなところです。そのところに全ての人が神様から離れて最後の審判を待っています。

 

しかしイエス様はこのハデスにまで下っていって、全ての問題は十字架の上で終わったということを宣言しました。ですからここに入ってしまったならば、もうここから逃れることはできません。洪水の時代にノアの時代、このハデスに行ってる人たちがたくさんいたとあります。ノアとその家族以外は全てハデスに落ちてしまいました。ですから今私たちがこの福音を信じないで死んでしまったならば、ハデスに落ちてそして最後の審判を待つだけのそのような状況になってしまいます。

 

そのためには、そうならないためには、まず神に近づくということが必要です。神様に近づく、どうしたらいいのでしょうか。前回見てきましたように、アベルのいけにえが必要です。神様の前に出ようとするならば、血を携えて出なければなりません。それは神様は聖なる方だからです。そして人間は汚れたものです。汚れた人間が聖なる神様の前に出たならば必ず死ななければならない、そしてこの死を意味するのがいけにえであり、そして十字架です。本来ならば汚れた私が死んで滅びなければならない、しかし代わりにキリストがいけにえとなって十字架の上で血を流して死んでくださいました。

 

それでヘブル人への手紙10章19節、イエスの血によって私たちは御座の前に近づくのです。神様の前に近づけるただひとつの方法は、イエス様の血を携えていくということです。そして神様の前に出たならば、今度は神様を求めるということです。

 

神を求めるということはどういうことでしょうか。マタイの福音書6章33節「神の国とその義とをまず第一に求めなさい」。神の国です。この第三の天を第一に求めなさいということです。

 

ほとんどの人は自分のことを求めて、キリストイエスのことを求めている人は誰もいません。そのようにパウロはピリピ人への手紙の中に書いています。自分のご利益だけを求めて神様に近づいて神様を求める、そのような人たちばかりだということです。誰もキリストイエスを求めて神様の前に出る人はいません。

 

じゃあ神様を求めるということはどういうことでしょうか。まずバベルの時代のように「私の名をあげよう」というのではなく、「あなたの御名が崇められますように」。パウロは自分の死によってもキリストの御名が崇められるならば、もうそれで十分ですと言いました。自分の名前などどうでもいい、ただキリストイエスの御名が崇められさえすればもうそれで私は満足です、という信仰です。

 

御国が来ますように。神の国がここにありますから、この神の国がこの地に来ますように。御心が天で行われているように、この地に臨みますように、という祈りです。神の国がこの地に臨むこと、それが神様のご計画です。そしてそのご計画が神様の御心です。

 

私の心、皆さんの心ではなく、ただ神様の御心が成し遂げられますように。神様の御心は何でしょうか。全世界に出ていって、全ての造られたものに福音を宣べ伝えなさい、ということです。それが神様の御心です。

 

それで私たちはイエス様はキリストですという、この初代教会と同じ福音を握って現場に出ていきます。神様はどれほどこの福音が宣べ伝えられることを喜ばれることでしょうか。

 

反対を言うと、サタンと悪霊はそのことを一番嫌います。それで色々なかたちで福音伝道、福音宣教に邪魔が入ります。今も目に見えるような形で、テレビを通してとか、インターネットを通してとか、マスコミを通してとか、色々な方法でサタンは戦略を持って働いています。

 

ですからレムナントたちがすごく揺れてしまっているようです。今まではこの福音が本当だとそのように信じていたレムナントたちが、「あ、そのようなことが本当ならば私はもう離れていこう」と。ヘブル人への手紙の記者が書いたように、迫害が起こった時には多くの人の信仰が揺れて、そして元の宗教、神様から離れたところに戻っていこうと、そのようにする人たちがいます。

 

しかし義人は信仰によって生きる。これがただ一つ神様に喜ばれる道ですから。キリストを信じる信仰によって義と認められた神の子どもとされた人たちは、キリストを信じる信仰だけを神様が喜んでくださるのですから、ただキリストだけを宣べ伝える、それが一番神様に喜ばれる信仰です。

 

キリストプラスアルファをつけたならば、それは福音にまぜものをしてしまう、そのようなものを伝えているということです。ですからキリストにプラスアルファをつけないで、ただイエス様はキリスト。色々な迫害とか問題とか、そのようなものが伴うかもしれません。しかし神様がそのあかしを喜んでくださるとするならば、神様の働きに対して邪魔をすることができるような存在は天にも地にも一人もいません。

 

サタンでさえもそれを邪魔することは最終的にはできません。そして人間が何か邪魔をしようとしたとしても、サウロが邪魔をしました。キリスト者を迫害しました。その時にイエス様は何と言われたでしょうか。「とげのついた棒を蹴ることは、あなたにとって痛いことだ」。

 

正確な福音を宣べ伝えている人たちを迫害する、妨害する、そのような人は結局とげのついた棒を踏んでいることですから、自分に痛みが来ます。これはどうしようもないことです。そのことをパウロは知りました。「ああ、私は逆らっていたんだ」ということを知った時に、イエスはキリストであると今度はパウロが宣べ伝えました。

 

宣べ伝えた時に今度はパウロが迫害されるようになりました。パウロが伝えているイエスはキリストであるというのは異端だと。それで裁判をかけられて、そしてローマにまでパウロは連れて行かれました。しかしこのパウロが伝えた福音はローマだけではなく、今世界中に広がってきました。それは神様が生きて働いているということの目に見える証拠です。

 

ですから福音の光を消すことができる、そのような存在はどこにもいません。皆さんはこの初代教会で伝えられた福音のバトンを受けた、そのような人たちです。残されている地上の生涯、このバトンを次の世代、レムナントたちに受け継がせて、エノクのように地上を離れて、そして御座に皆さんが出れば、もうそれで何の問題もありません。

 

それゆえに神様に喜ばれる信仰、これはただキリストを信じる信仰だけですから、ただキリストだけを正確に知ってあかしする、そのような皆さんお一人お一人となりますように、主の御名で祝福をお祈りいたします。

 

父なる神様、恵みを感謝をいたします。ただあなたの恵みによってイエス様がキリストである、この信仰を持つことができたことを感謝をいたします。今私たちの現住所はエノクと同じように御座にありますから、自分が今どこにいるのかということを正確に知ってあかしすることができる証人として一人一人を用いてください。

 

新しい年を迎えようとしていますけれども、この福音宣教がますます世界に前進し拡大していきますように。主がご自身のわざを成し遂げてください。イエス様の御名によってお祈りいたします。アーメン。



【書き起こし】2024年1月7日 主日礼拝メッセージ『今まで通ったことのない道』(ヨシ3:1-13)

2024年1月7日 主日礼拝メッセージ『今まで通ったことのない道』(ヨシ3:1-13) 
https://www.youtube.com/watch?v=6K-VsWeKJ9k

"ヨシュアは翌朝早く、イスラエル人全部といっしょに、シティムを出発してヨルダン川の川岸まで行き、それを渡る前に、そこに泊まった。
三日たってから、つかさたちは宿営の中を巡り、
民に命じて言った。「あなたがたは、あなたがたの神、主の契約の箱を見、レビ人の祭司たちが、それをかついでいるのを見たなら、あなたがたのいる所を発って、そのうしろを進まなければならない。
あなたがたと箱との間には、約二千キュビトの距離をおかなければならない。それに近づいてはならない。それは、あなたがたの行くべき道を知るためである。あなたがたは、今までこの道を通ったことがないからだ。」
ヨシュアは民に言った。「あなたがたの身をきよめなさい。あす、主が、あなたがたのうちで不思議を行われるから。」
ヨシュアは祭司たちに命じて言った。「契約の箱をかつぎ、民の先頭に立って渡りなさい。」そこで、彼らは契約の箱をかつぎ、民の先頭に立って行った。
主はヨシュアに仰せられた。「きょうから、わたしはイスラエル全体の見ている前で、あなたを大いなる者としよう。それは、わたしがモーセとともにいたように、あなたとともにいることを、彼らが知るためである。
あなたは契約の箱をかつぐ祭司たちに命じてこう言え。『ヨルダン川の水ぎわに来たとき、あなたがたはヨルダン川の中に立たなければならない。』」
ヨシュアイスラエル人に言った。「ここに近づき、あなたがたの神、主のことばを聞きなさい。」
ヨシュアは言った。「生ける神があなたがたのうちにおられ、あなたがたの前から、カナン人、ヘテ人、ヒビ人、ペリジ人、ギルガシ人、エモリ人、エブス人を、必ず追い払われることを、次のことで知らなければならない。
見よ。全地の主の契約の箱が、あなたがたの先頭に立って、ヨルダン川を渡ろうとしている。
今、部族ごとにひとりずつ、イスラエルの部族の中から十二人を選び出しなさい。
全地の主である主の箱をかつぐ祭司たちの足の裏が、ヨルダン川の水の中にとどまると、ヨルダン川の水は、上から流れ下って来る水がせきとめられ、せきをなして立つようになる。」"


2024年、新しい年を迎えて最初の礼拝を共にお捧げすることができました。本当に主に感謝をし、全ての栄光を今日も主に捧げたいと思います。

先週のみことばにありましたように、神様は年の初めから年の終わりまで皆さん一人一人に目を止めておられます。ということは、この今の時間も主の目が皆さん一人一人の上に止められているということです。

その方が人間に対して最初に尋ねたことは何でしょうか。それは「あなたはどこにいるのか」ということでした。アダムに対して、エバに対して、「あなたはどこにいるのか」。つまり、今私たちがどこにいるのかということ、それは非常に重要なことです。今自分がいる現在地が分からないと、どこに向かっていったとしてもその向かってる方向というのもまた違ってしまうからです。

それで今私がいる、皆さんがいる現在地はここですということが分かると、その次に必要なことは行くべき道、どこに向かっていったらいいかというその方向です。その方向を神様はみことばを持って導いてくださる方です。

全ての人間は創世記の1章の2節にありますけれども、闇、混沌、虚しさの中でこのように生まれてきます。人間の心というものがあったとしても、その心は闇ですから光がない状態です。ですから生まれつきの人間というのは霊的にそのたましいが死んでいる状態です。それでどこへ行ったらいいのか分からないで地上をさすらい人として今さすらって歩いています。

そのような中で神様がある日私たちに福音の光を心に照らしてくださいました。神様の方からそのような恵みがなければ、人間の方から神様を探すと行くところは全てが宗教の道です。それで福音の光が心の中に照らされた時に、イエス様がキリストだということが分かるようになります。信仰が与えられるということです。

恵みのゆえに信仰によって救われたのです。救われた結果、神の子どもとなった時にいのちのみことばがその人の中に与えられますから、少しずつですけれども自分の足元は照らされて見えるようになります。「あなたのみことばは私の足のともしび、私の道の光です」。足元に神様のみことばの光が照らされますから、私たちは一歩一歩神が私と共におられるというそのインマヌエルの道を歩んでくるようになります。

それがこれまで私たちがキリスト者だというのが確かであるならば、今までそれが私たちが通ってきた道です。それでまず第1番目に私たちの元来た道というものがあります。今まで私たちが過去を振り返った時に、「ああ、こういう道を私たちは彷徨っていた」というそういう道です。それは自分勝手な道です。

イザヤ書の53章の6節です。「私たちは迷子になった羊のように、それぞれが自分勝手な道を向かって歩んでいました」。それはこの目で見て、目の欲、あるいは肉の欲、持ち物の誇りとありますように、自分の肉と欲のままに生きてきました。これが欲しい、あれが欲しい、あそこに行きたい、あそこには行きたくない、全てが自分の判断です。全てが私中心という道です。

肉と欲のままに生きていったその行きつくところは、神の御怒りがその上にとまっているとあります。生まれた時からもうすでに神の御怒りが臨んでいる、そういう状態で全ての人はこのように生まれてきました。

生まれた後行くところはどのような道でしょうか。それはイエス様が広い道を歩んでいると言われました。マタイの福音書の7章の13節。この世の中の流れというものがあります。日本人であれば日本人の世の中の流れ、20世紀で生まれた人は20世紀の日本の時代の流れがあり、21世紀に入ってきましたから、今も21世紀の日本人の多くの人、99%以上の人、99.7%と言ってもいいかもしれません。もっとかもしれません。ほとんどの人は広い道を行ってます。

その広い道というのは世の中の流れであり、世の中の流れというのは何でしょうか。それは偶像礼拝の道です。神の怒りはこの偶像礼拝の上に臨みますから、多くの人たちは「私の神々」という形でたくさんの神々に仕えて今も生きています。それが年末年始の人々の生活を見れば明らかです。クリスマス礼拝を捧げたと思えば元旦は初詣に行ったり、色々の人々がその歩んでいるその道を見ればどれほど広い道を歩いているかということです。

ただそれは足が教会に行っただけ、ただ足が神社お寺に向いていった。自然になぜか分かりませんけれども、自然にその足が広い道へと向かっていきます。このような広い道を歩んでいると、当然神様の御怒りは何かっていうと、呪いと災いが起こります。「新年早々どうしてこういうような呪いと災いが日本に臨んだんでしょうか」そういう質問が来ましたけれども、それに対する答えがこの道の上を歩いているからです。

それでそのような道は聖書では罪人の道と呼んでいます。詩編の1編の1節です。罪人の道というのはどういう道でしょうか。人間のこの肉の目でその道を見るならば、広いだけではなくてまっすぐに見えるそういう道です。人の目にはまっすぐに見えるけれども、しかし的外れな道ということです。神様の義である、その神の目から見たら曲がった道ということです。それが罪という言葉が「的外れ」というそのところから来ています。人間は行くべき道から逸れてしまいました。神様のことばから離れたということは、全ての人の道が的外れになったということです。

この道の行きつくところは死と滅びの道と、そのように聖書に書かれています。それで自分がキリスト者だということ、そのことが確かであるかどうかということは、皆さんが今いる道がどこにあるかということです。神様は一人の人も滅びることを望んでおられませんから、神様は救いの道を前もって準備してくださいました。

それが出エジプトの道です。エジプトが意味しているのは、このような広い道、みんなが通っているそのような道がこのエジプトという言葉です。だからエジプトを脱出しなければ救われません。それが出エジプトということです。出エジプト記の12章の41節、契約の民は一団となってこののエジプトを出たとあります。出エジプトが完了したということです。

それは何によって完了したのでしょうか。ここに2つの道がありました。1つは「羊の血を塗りなさい」。その家の玄関入り口と門柱と鴨居に羊を殺してその赤い血を塗りなさい。それが神様が命じられたことです。意味していることはキリストの十字架ということです。

神の子羊が送られてきて十字架の上で、罪のないそのからだから血が流れます。その血を信じるというその道です。その血が私のために流された契約の血である、そのように信じて受け入れた人は今度はこの海の中を通るようになります。この海というのが紅海です。この海を通る、それがバプテスマということです。

父と子と御霊の御名によってバプテスマを受けたということは、「私はキリストが十字架につけられて死んだように、私もキリストと共に十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです」。このみことばがバプテスマによって、海と空を通過することによって成就します。

それで出エジプトしたということのその証拠は何でしょうか。それは幕屋で礼拝を捧げるようになるということです。幕屋は天にある御座のひな形です。御座は目に見ることができません。それで神様の方から目で見えるような形でこの地上に幕屋を造りなさいと、そのように命じられました。命じられた通りに幕屋が完成した時に、主の栄光が幕屋に満ちたとあります。出エジプト記の40章の34節。

つまり礼拝というものは神様の栄光を見た人が捧げるもの、それが礼拝です。ですから神様の栄光を一度も見てないという人は、礼拝を捧げることは実際にはできません。本当に神様は素晴らしい方だと何らかの形で闇の心の中に光が入ったというその経験、闇の心の死んでいたたましいの中にいのちが入ったという経験、神様のことば が一つもないそのような私の中に神のことばが臨んだという経験、それが幕屋ということです。

幕屋の中には何があるのでしょうか。契約の箱があり、いのちのパン、パンの机があり、燭台があります。それで幕屋の中に入ったということは、この神様のことば、永遠のいのち、まことの光を味わったということです。一つもないということはその人が救われているかどうかわかりません。なぜならば主の栄光がその人の中に臨んでいないので、依然として真っ暗闇の中、闇、混沌、虚しさ、この中にいるということです。

自分はここにいるつもりであったとしても、実際に主の栄光を自分は一度も見たことないという場合は、ここにいるかもしれないということです。それでこの幕屋が人となってこのように来ました。ヨハネ福音書の1章の14節。「このことばは人となって幕屋を張られた」。人間となってこの世に生まれて、そしてその名をイエスとつけられました。

このイエスとつけられた方が生贄の羊となって十字架の上で屠られました。死んで3日目に死者の中から蘇られました。蘇られたイエス様が心の扉、闇の中の心の扉を叩いておられます。その声を聞いて受け入れたならばどうなるのでしょうか。イエス様、この幕屋が突然皆さんの中に入ってきたという経験です。つまり心の中に神殿が来たということです。

それで第1コリント人への手紙の3章の16節、「あなたがたのからだは神の神殿であって神の御霊が宿っている」という霊的な状態です。この状態は元来た道の状態とは全然違います。ここには神のことばもなければ永遠のいのちもなければ、まことの光もありません。しかし受け入れた人の中にはかすかかもしれないし、大きく主の栄光を見たというそういう人もいるかもしれません。その受け入れた人によってその栄光の見え方は様々かもしれませんけども、確かなことはその人の中に神のことばがある、あるいは永遠のいのちが入った、死からいのちに移った、闇から光に移った、何らかの少なくともこの3つのうちの1つはなければ幕屋に栄光が満ちたというこの体験は一度もしたことがないということです。

そうすると海をまだ渡っていない、そういう状態になってしまいます。しかし海を渡ったということが確かであるならば、イエス様が信じた皆さんの中に内住してくださっています。聖霊が内住している、これが救いです。

救われたならば今度はその聖霊が導かれます。それが荒野で雲の柱、火の柱のように見えて、これは神がその雲の柱、火の柱の中におられるという目に見える神の栄光の現れです。契約の民は必ずこの雲の柱、火の柱の下に留まっているということです。この雲の柱、火の柱が突然移動します。そうすると荒野にいた民も突然いきなりですね、出発をする準備をしてこの雲の柱、火の柱についてきます。それが荒野での生活でした。何日もその雲の柱、火の柱がとどまると民はいつまでもそこにとまっています。これが信仰生活ということです。

荒野にエジプトを出た民は荒野に導かれましたけれども、荒野は何もない非常に生活をするのに不便な状態です。その時にエジプトを見る、後ろを振り返る人たちがいます。ロトの妻のように「ああ、エジプトは良かった」と、そのように後ろを振り返って昔に戻りたいと、そういう人たちもいます。救われてはいても昔のような好き勝手な生活ができないということで契約、聖霊の導きについていくということは肉によっては非常に不便なことです。

「ああ自分は今まで自由にできていたけれども、今は聖霊が私の中に内住して私を導いてくださっているので、私の肉の思いの通りには生きていけない」と思うと、なかなかそこで不便不自由を感じて、ああ元来た道に引き返したいと。確かに荒野に導かれて契約の血を塗ったその民も荒野に入ってきているんですけれども、荒野で一生が終わっていってしまいます。

契約を握っていれば行くべきところは天国ですから、ここで天国に行ってしまう、神様の国に移される人たちもいるでしょう。しかし神様が願っていることは、この荒野で一生を過ごして欲しくないということです。ここは信仰が訓練されるそのような時刻表です。つまり後ろを振り向くのでもなく、御座を見上げるそのような時刻表です。御座が見えてくるようになると荒野で生活していても何も問題はありません。

朝ごとにマナが与えられて、水がなければ岩から水が出ますし、「40年の間あなた方が着ていた着物はすり減らなかった」とあります。神様が共におられるというこのみことばが成就しますから。荒野で確かに不便な、あるいは苦しい生活をしているかもしれませんけれども、しかし何の不自由もない生活ができるということです。「主は私の羊飼い、私は乏しいことがありません」と。まことの牧者であるキリストが先頭に立って雲の柱、火の柱を持って前進していきますから、そこについていくだけです。

それでいつまでも荒野にいるのではなく、これから行く道です。これがまず、ほとんどのクリスチャンは荒野にいますから、荒野の行程を行かなければなりません。申命記の8章の2節。このところでなぜ神様が神の子どもたちを荒野へと導かれたか、その理由が述べられています。それはあなたがたを苦しめ、あるいはあなたがたを試み、そして飢えさせるとありました。荒野というのはそういう環境ですから、そこにいるということは苦しみ、試み、飢えがあるということです。

この目的は何でしょうか。それは「あなたがたの心がどういうものか」ということを神様が知るため、そのようにあります。人間は良い環境に置かれて何の問題もなければ、「神様、神様」と。荒野であったとしても褒めたたえるでしょう。神様が全部私に財産もくださって、子どももくださって、病気は一つもない、ヨブのようなそういう状態だったら、サタンも言います。「そんな人であれば誰だって神様を褒めたたえますよ。苦しめてみてください、試みてください、本音が出ますよ」と。

神様はそのようなことをサタンに許可しました。それはその心に本音が何であるか。その心がただ「私は衣食住だけで満足です」と、「食べていければいいです」という人たちもたくさんいます。もう食べていくために私は働いているんです。もうお金さえもらえばそれでいいです。多少お金が溜まったら少しはポジションが良くなって、少しは贅沢ができるようになって、少しは良い人だと人々から賞賛されるようになったら、もうそれは満足ですと。ただこの地上のことだけを見ている人たち、それは全てこの以前の私たちが通っていたその道を歩んでいる人たちです。

荒野でこのようなことを通して苦しめた時に、私はパンだけで生きるのではなく、あなたの口から出る一つ一つのことばによって生きたいと、そのような人たちが出てきます。ただ衣食住で十分だという人たちは荒野で死んでいきました。しかし、私は神様のことばについていきます。神様のことばについていったらどうなるのでしょうか。それは行きつくところは聖書は、ただキリストだけ。

聖書が書かれた目的はイエス様がキリストですということが主題ですから、キリストが全てと、このように福音に結論が出ること。これが荒野の訓練の目的です。福音に結論が出るということは、どういうことでしょうか。いろんな問題があったとしても、ヨハネ福音書の19章の30節、私の全ての問題は終わったということです。問題が解決したから終わったという結論ではなくて、ヨブのように今財産を失い、子どもを失い、健康を失った。でもそれでいいです。そういうことです。

なぜでしょうか。キリストで十分ということです。第2コリント人への手紙の12章の9節、私は弱いけれども、私の弱さも問題ではありません。キリストの力が私を覆ってくださるので、私はそれで十分です。今置かれている環境境遇、そういうものだけで、そこに神様が私を置かれたんですから、もうそれで十分ですという信仰です。

そしてキリストが全て、コロサイ人への手紙の2章の2節、私は無学です。知識もなければ知恵もありません。それでも問題はないということです。なぜならば、全ての知恵と知識との宝はこのキリストのうちに隠されているので、その人がキリストで全てだと、そのように信じるならば、神の知恵、神の知識がその人の中に啓示して表されるようになりますから。あ、本当に私は愚かだったけれども、今は悟りが与えられました。みことばの戸が開くと光が差し込み、わきまえの無いものに悟りを与えます。それでただキリストだけで十分です。全てです。全ては終わりました。これが福音に結論を出したということです。

福音に結論を出したその人は、福音に結論が出たかどうかということの証拠は何でしょうか。それは私は契約の箱についていきますという信仰です。ヨシュア記3章11節、ここを読んでみます。ヨシュア記3章11節、見よ、全地の主の契約の箱があなたがたの先頭に立って、ヨルダン川を渡ろうとしている。つまり今いる現住所はヨルダン川のその川辺にいるということです。今日の本文はこのところから、ここに渡っていこうとしているということです。

これが契約の箱ということです。祭司たちがその四人で契約の箱を担いでヨルダン川を、この水が流れています。ここを渡った時はもう水は分かれて道ができていましたが、ここを渡ろうとする時には依然として川の水が流れている状態です。祭司たちが信仰を持ってその契約の箱を担いで川辺に足を踏みおろそうとするその瞬間に、この水が堰き止められるということです。それで川の中、ここはヨルダン川ですね、川の中に道ができたということです。

ですから誰でもこんな信仰に満たされて入れるという状態ではありません。40年間荒野を彷徨った大人たちは、ヨシュアとカレブを除いて全てここで死んでいきました。ヨシュアとカレブと、それからレムナント、残された次の世代、その人たちがこの契約の箱についていこう。こちらは神様が私たちに与えてくださる約束の地、征服するべきそのところだから、是非私たちはそこに行きましょうと渡る決断をしているわけです。その信仰によって川の水が堰き止められました。

ですから自分の前に置かれている状態というのは、絶対不可能というものが見えます。日本福音化、99.7%もの人が今信じていない、こういう日本でどうやって日本福音化がなるでしょうか。肉で考えると、自分の目で見ると絶対不可能です。ところが契約の箱に自分はついていくと、その信仰に満たされているならば、水が分かれるということです。神様はこちらに約束の地に契約の民を導こうと、もうそれはすでに神様が決定していることだからです。

そこで征服することができる人たちは、肉の目ではなくて心の目が開かれた人です。ヨブ記42章2節。このところにヨブが告白しました。あなたには全てができること、どんな計画も成し遂げられることを私は知りました。心の目が開いたヨブは、神様は全能であって全知であって、そして神様が世界福音化という計画を立てられたならば、それは神様にとっては可能なことだと信仰に満たされた人たちも、それは可能です。是非登っていきましょう。

そのような信仰の決断をすることができる人は、私の残った人生というのは伝道と宣教のために神様が計画をしておられるんだ。そのように福音に答えが出ると、残された自分の人生が見えてくるようになります。あ、私の行くべき道はこれだ。あなたがたが行くべき道を教えよう、その教えが自分の心とたましいに臨んできます。あ、これが道だ。ヨルダン川を渡ってカナンに入って、エリコの城を崩してというように一歩一歩神様が門を開いて、そしてその地を占領するように導いていかれるので、私はその契約の箱についていきます。そのような信仰を持たれる皆さん一人お一人となりますように、主の御名で祝福をお祈りいたします。

父なる神様、恵みを感謝をいたします。新しい年、私たち契約の民が一人一人行くべき道を教えてください。一人一人の時刻表に従って、神様がインマヌエルの祝福と御座の祝福を持って、この契約の民を導いてください。一人一人を神様ご自身と恵みのみことばとに委ねいたします。イエス様のお名前によってお祈りいたします。アーメン。

2024年12月22日 主日礼拝メッセージ『私の人生を分けるキリストの誕生』(ルカ2:10-14)

2024年12月22日 主日礼拝メッセージ『私の人生を分けるキリストの誕生』(ルカ2:10-14)

https://www.youtube.com/watch?v=Nz4rIJdFO_c

 

"御使いは彼らに言った。「恐れることはありません。今、私はこの民全体のためのすばらしい喜びを知らせに来たのです。

きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。

あなたがたは、布にくるまって飼葉おけに寝ておられるみどりごを見つけます。これが、あなたがたのためのしるしです。」

すると、たちまち、その御使いといっしょに、多くの天の軍勢が現れて、神を賛美して言った。

「いと高き所に、栄光が、神にあるように。地の上に、平和が、御心にかなう人々にあるように。」"

ルカの福音書 2章10~14節

聖書 新改訳©2003新日本聖書刊行会

 

1部「私の人生を分けるキリストの誕生」(ルカ2:10~14)

 

私が中学生の頃だったと思いますけれども、学校の廊下に世界の年表というものが貼られていました。その中に「キリストの誕生」という文字が書かれていて、初めてキリストというその言葉を私はそこで目にしました。その生まれた年がBC4というように書かれていて、そしてその後にクエスチョンマークがついていました。つまり不明ということだと思いました。大体その頃に生まれたんだろうというような意味で、クエスチョンマークがついていたと思いますけれども、イエス様を信じた後に、そのイエス様が生まれたその日は12月の25日ではないと、そのように聞いた時に、この方が生まれた年もまた年月日も全くわからないんだということに驚きました。

 

世の中ではま自分の身分というかを確認するために生年月日が必ず尋ねられますけれども、生年月日がその不明な方が世界の歴史を2つに分けるその誕生となったということは、さらに大きな驚きでした。キリスト以前BCとキリスト後ADとに世界の歴史が分けられています。世界の歴史が2つに分けられているというだけではなく、キリストを信じたそのキリスト者の生涯もその人がキリストを信じる前とキリストを信じた後というように2つに分かれます。

 

キリスト者だと自分が思っている方々の中で「私のキリスト前とキリスト後というものにあまり変化がない」ということが確かであるならば、もしかするとその人は救われていないかもしれません。ただキリスト教という宗教の中に入っているだけ、あるいは洗礼を受けたかもしれないし教会の礼拝に通っているかもしれないけれども、もしその人の生涯に全く変化がないとするならば、それは本当に自分は救われているかどうかを確認した方が良い、そのような状態だと思います。そういう意味でキリストの誕生というものは皆さんの人生を綺麗に前と後というように2つに分けるものとなります。

 

まず第1番目にBC、キリストを信じる前の皆さんはどのような状態だったのでしょうか。それは真っ暗なその真夜中の状態です。イザヤ書の8章の22節、このところに「地を見ると、見よ、苦しみと暗闇」とあります。皆さんのそのどこが苦しみでまた暗闇なのでしょうか。それはその心の中という意味です。エペソ人への手紙の5章の8節「あなたがたは以前は暗闇でした」とあります。暗闇であったためにやはり光を求めるようになります。苦しんでいればいるほど、どこかにその苦しみから解放される光はないんだろうかと、そのように探し求めます。

 

そのような時に第2コリントの11章の14節「サタンさえ光の御使いに変装します」とあります。偽りの父である悪魔に人間は騙されて神様から離れて、そして闇の中に入ってしまいました。闇の中にいるその人間に「これが光だ」「私は神だ」あるいは「私はキリストだ」「私は本当の光を見た」とそのように証しする人たちが現れます。闇の中にいる人たちは、悪魔は偽りの父ですから、光のようにその御使いが現れたのを見ると本当だと思って、その宗教であるとかその偶像というものの前にひれ伏してしまうようになります。それが神様から離れた人間の心が暗闇だということです。そこにはまことの光がありません。

 

するとその思いはどのような思いで生きてるのでしょうか。ピリピ人への手紙の3章の19節に「彼らの思いは地上のことだけです」とあります。神様から離れた人間の関心はこの世のこと、また自分のことです。自分が何を食べるか、何を飲むか、どんな家に住むかというような、そのようなことの思いでいっぱいですから、それで満たされようとそのように色々なものを探し求めるようになります。

 

色々なものを探して「これで満たされる」とそのように思って「ああ本当に満たされた」と思いますけれども、少し時間が経つとまたその満たされた思いは消えていきますから、この世の全ての快楽であるとか全ての良いものを味わったソロモンが「空の空、全ては空」、この世のものをどんなに求めても人間には絶対に満たされないとそのように証しをしました。

 

じゃあ人間の考えは何でしょうか。第2コリント人への手紙の10章の4節と5節に、この暗闇の世界を支配しているサタンが要塞を立てているとあります。つまり神様から離れて闇の中にいる人間というのは私中心です。私の考えが全てです。私の考えだと思って多くの人たちは生きていますけれども、よくよくその考えというものを分析してみると、場合によっては世の中の人々の考えであったり、あるいは人の教えであったり、悪霊の教えであったり、自分本来の考えというものはほとんどその人にはないということが分かるようになります。

 

それでそのような考えをしていると、創世記の11章の1節から8節、この世の中で成功しようと。天にまで届くことができるような塔を立てようと思ってバベルの塔を立て始めます。この世で成功して神様でさえも私の成功を邪魔することができないようなそのようなサミットの座につこうと。その考えが神様に敵対しているということです。それで一瞬のうちに自分の立てたそのバベルの塔が崩れてしまいます。なぜこのような人間は状態になってしまったのでしょうか。根本的な原因があります。それはその人の霊、その人のたましいです。

 

エペソ人への手紙の5章の14節に「死者」とあります。死んでいるということです。そのたましいが死んでいる。なぜ死んだのでしょうか。エペソ人への手紙の2章の1節「あなたがたは自分の罪と罪過の中で死んでいる」とあります。罪が入ったそのたましいは死んでしまっています。それで私たちは生まれた時から死んだ状態、たましいが死んだ状態、それゆえに闇の中に、世の中のこと、そして成功というようなことでいっぱいになって私たちはこの地上を彷徨い歩いています。どこに行ったら光が、本当の光があるのか、どこに道があるのかということが見えません。自分の方からどんなに光を探しても、死んでいる人間に光は見つけることができないからです。

 

しかし「死者よ、起き上がれ」とみことばにあります。「目を覚ましなさい」と、死んでいる人は目を覚まししなさいと。それが神様の願いだからです。神様は人間を愛してるので、このような状態の中にいるそのような人たちが目覚めて、そして起き上がることを願っておられます。それがクリスマスの出来事です。

 

2番目にAD、キリストが来られます。それが日の出が訪れるということです。ルカの福音書の1章の76節、77節このところに、このように書かれています。「日の出がいと高きところから我らを訪れ、暗黒と死の影に座る者たちを照らす」。神様の方から私たちに訪れてくださって光を照らしてくださるということです。それが素晴らしい喜びの知らせ、つまり福音(グッドニュース)ということです。世の中でこれ以上に素晴らしい喜びの知らせは他にはありません。

 

それは何でしょうか。創世記の3章15節「女の子孫が蛇の頭を踏み砕く」。女の子孫という言葉はキリストを意味しています。このキリストがこの世を支配し、また人間を支配している蛇、サタンをその死によって踏み砕くというその約束です。

 

罪のない方が来られて、出エジプト記の3章の18節「なだめの供え物」となる。神のみ怒りが、この方のからだから血が流されることによって神のみ怒りは治まるということです。そしてイザヤ書の7章の14節「処女が身ごもって男の子が生まれる」。イザヤがこのように預言しました。この預言は絶対に人間には信じられないこと、ありえないことです。それで御使いが700年ほどイザヤが預言した後にマリアのところにやってきて「あなたに男の子が生まれます」とそのように伝えました。聞いたマリアは「どのようにしてそのようなことが起こるのでしょうか。私はまだ男の人を知りませんのに」とそのように答えました。

 

ですからマリアも「私の今の状態では子どもが生まれるようなそのような状態ではありません」と。御使いが言いました。神にとって不可能なことはありません。マリアはその神の言葉を信じて生まれたその子の名をイエスとつけました。マタイの福音書の1章の21節、イザヤが預言したその預言が、このイエスとつけられた方によって成し遂げられるということです。これらは皆キリストに対する預言ですから、

 

このイエス様がそのキリストの働きを十字架の上で成し遂げられました。ヘブル人への手紙の9章の12節、そのからだから血を流すことによってただ1度で永遠の贖いが成し遂げられました。大祭司の働きです。ヘブル人への手紙の2章の14節、その死によって悪魔という死の力を持つものが滅ぼされました。王の働きです。そしてヘブル人への手紙の10章の20節、神様から離れた人間は神様のことばから離れてしまいましたから、私たちが神様のことばに出会うただ1つの道を開かれました。まことの預言者の働きです。この3つの働きがキリストの働きですから、

 

エス様が約束されたキリストとして来られた方だとそのように信じて心に受け入れると何が起こるのでしょうか。私たちの心の中に、マラキ書の3章の1節というところに「あなたがたが尋ね求めていたその使者が突然その神殿に来る」とあります。神殿には何があるのでしょうか。神殿にあるものは契約の箱です。それからパンの机です。そして燭台です。神殿の中にあるもの、それがその信じた人の中に入ったということです。

 

新約聖書のみことばで言うと第1コリント人への手紙の3章の16節「あなたがたのからだは神の神殿であって神の御霊が宿っていることを知らないのですか」。心を開いてイエス様をキリストとして受け入れたその瞬間に、その人のからだに神の神殿が臨んだということです。神殿が臨んだということは神様がそこに住んでおられるということです。これがイエス様をキリストとして受け入れた人の状態です。この状態でもうすでに罪が許されていますし、天国に行くことができますし、悪魔の子どもから神の子どもに生まれ変わった、そういう状態です。

 

ところが受け入れた人自身が、自分の中に起こったこのような霊的な出来事ということが何であるのか理解できない、そういう状態の人がたくさんいます。救われたのかも分かりません。罪が赦されているのかも分かりません。天国に行く確信もありません。祈りが答えられるかどうかも分かりません。神様がどういう風に導いてくださるのか分かりません。私はどんな問題が来ても勝利するなどという確信はどこにもありません。それが受け入れた人の直後のその状態です。

 

確かに義の太陽であるキリストがその闇の中に入ってくださっているということは事実ですけれども、夜明けが訪れたような状態ですから、夜明けをご覧になった方は分かると思いますけれども、だんだんと明るくなってきて、ああそこに家があるとか、あそこに人が来るとか、あそこに海があるとか、今まで真っ暗で見えなかったそのものがぼんやりと見えてきたような、そのような状態が多くの人たちのそのキリストを心に信じて受け入れたその状態です。

 

それで3番目に「今日あなた方のために救い主がお生まれになりました。その方こそ主キリストです」とあります。イエス様を受け入れたということは本当のクリスマスを体験したということですけれども、その日が信仰の始まりですから、その日に日の出が皆さんの暗いその心の闇を減らして、そして道が見えるようにします。九十九里海岸に行った時にその海から朝太陽が日の出ですけれども訪れた時に、ちょっと驚くべき光景が見えました。それはまだ周りは少し暗いですけれども、その太陽が登ったそのところに道ができていました。その道がずっと陸までこう続いています。ちょうど光の道という状態です。

 

それでその道を、義の太陽であるキリストが私の心に日の出となって登ってくださった時に、ようやく道が見えたんだと、そのようなことが理解できましたけれども、受け入れたその日から今日まで皆さんにとってキリストはどのような方として今共に歩んでおられるのでしょうか。

 

それは神様がこのままの状態ではよくありませんから、福音の光を放ってくださいます。第1コリント人への手紙の4章の4節、この福音の光が放たれる時に、ガラテヤ人への手紙の2章の20節、キリストが私たちの罪の身代わりとなって血を流して死んでくださっただけではなく、私もキリストと共に十字架につけられたということが分かるようになります。古い私はキリストと共に十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられます。

 

ローマ人への手紙の6章の4節、死者の中からキリストが甦られたように、私もキリストと共に甦って、そして今は新しい歩み、以前のこのような古い歩みではなくて新しい歩みが始まっています。そしてキリストが復活し、もとおられた御座に帰っていかれたように、私たちもエペソ人への手紙の2章の6節、キリストと共に天のところに座らせてくださいました。私たちはただ地上だけ、この世が全てというようなそういう生き方ではなくて、もう1つ見えない世界、このやがて古びて滅びる世界ではなくて、永遠になくなることのないそのような世界に私たちは座らせていただいているということが見えるようになります。

 

心の目が少しずつ開いている状態です。心の目が開くとコロサイ人への手紙の1章の27節、世々に渡って長い間隠されていたこの福音が少しずつ啓示されるようになります。どのように啓示されるのでしょうか。以前はぼんやりしていて、私のからだが神の神殿で御霊が宿っているから私は救われているんだと、そのように思っていたでしょうけれどもあなた方の中におられるキリスト、キリストの栄光がその心の中に放たれると、神のことばが私にあり、いのちがあり、まことの光が自分の中にもうすでに与えられている。

 

個人的なあかしですけれども、私はこのところまで行くのに信じて30年ぐらいかかりました。イエス様を信じて受け入れてからなかなかその霊的な世界というものが分かりませんでした。その1つの原因は福音が正確に伝えられていなかった、あるいは聖書を読んでも自分自身が福音を正確に知ることができなかったということです。

 

ある日イエス様がキリストであり、キリストが十字架の上で全ての問題を完了したと終わらせてくださり、そのキリストの中に全てがあるということです。コロサイ人への手紙の2章の2節「神の奥義であるキリスト」、そして3節「このキリストのうちに知恵と知識との宝が全て隠されているのです」。隠されているその素晴らしいキリストが少しずつ神様の恵みの中で心の目が開かれて見えるようになってきました。

 

するとどうなるのでしょうか。義の太陽が登るようになるということです。いつまでも日の出のような状態ではなくて、その海から上がってきたその太陽がだんだんと天に登って、真昼になると今まで見えなかったものがはっきりと見えるようになってきます。

 

この太陽というのは地球を照らすその太陽ではありません。なぜかと言うと「義」とついています。普通の太陽は後には、やがては滅びてしまう、失われてしまう太陽ですけれども、この義の太陽はキリストのことを意味しています。キリストこそ神の義なる方ですから、その義の太陽がマラキ書の4章の2節に「あなたがたの心の中を照らし、昼のように暗闇を照らしてくださった」ならば、どうなるのでしょうか。

 

まず癒しが与えられます。「その翼には癒しがある」と。一番癒されなければならないところは不信仰なところです。ですからこの義の太陽が完全に私たちを照らしてくださったならば、不信仰が癒されて心と思いと考えが変えられていくようになります。それが信仰に満たされるということです。

 

それだけではなく力が与えられます。「子牛のように牛舎を出て飛び跳ねる」とあります。もうエネルギーにからだが満たされているそのような状態です。つまり神様がそのような力を信じている皆さんに与えてくださるということです。するとどうなるのでしょうか。この力はただの力ではなくてキリストをあかしするその力ですから、以前の私のBCはこのような状態でしたけれども、しかしADキリストを信じて受け入れてから私の人生は完全に変わりました。そして今はこのように変えられていますと。誰でもキリストにあるならばその人は新しく造られたもの、この古いものは全て過ぎ去って、見よ、全てが新しくなりました。

 

キリストが自分の心の中に住んでいてくださるということを本当に悟ったならば、この中に私たちが必要としているものは全てありますから、もう一つ神様は権威を与えてくださいます。この権威というのは「悪者どもをその足で踏み治める」とあります。ここで言われている悪者というのはただ人間のことではありません。私たちが人間を自分の足で治めて勝ったからと言ってどうなるのでしょうか。何の意味もありません。

 

私たちの戦いは血肉(人間)ではありません。天にいる諸々の悪霊とまた自分を支配していた悪魔サタンに対する霊的な戦いですから、心の目が開いてはっきりと敵である悪魔がまた悪霊が分かるようになりますから、イエスキリストの御名によって戦うことができるようになります。それでこの権威が与えられたということを使うと「平和の神は速やかにあなたがたの足の下でサタンを踏み砕いてくださいます」。私たちに偽物の光で惑わしていたようなもの、私たちの考えに高ぶりを与えて「あなたは神がいなくても大丈夫だ」「あなたの力で神のようになれる」、そのように騙していた悪魔サタンをその足の下に治めることができる、その権威が与えられます。

 

このように自分自身が神様の恵みの中で変えられたということを体験した人は、この御使いと同じように「天には全ての栄光が神にありますように」と賛美して「地には平和が御心に叶う人々にありますように」。まだ神様の御心に叶う弟子が恵みの選びによって残されていますから、その人たちを私たちは探しに出かけるようになります。それが神様から与えられているミッション(使命)だからです。

 

それで今日共にクリスマスの礼拝を捧げています。皆さん一人一人の自分の生涯を振り返って、以前の私はこのようなものであったけれども、今はキリストを信じてこのようになりましたという、その自分の変化を感じることができるでしょうから、するとそれは神様に対する賛美となります。そしてそれは人々に対するあかしとなります。そのあかしは本当にその人のありのままのあかしですから、聞いている人たちに力があります。「私も本当にそのようになりたい」と思わせてくれる。それが福音の光がその人を通して放たれる、それがキリストの香りとなって皆さんを通して放たれるようになります。このような素晴らしいクリスマスの祝福を味わう皆さんお一人お一人となりますように、主の御名で祝福をお祈りいたします。

 

神様、恵みを感謝をいたします。クリスマスの礼拝を捧げているお一人お一人に聖霊と信仰と賛美に満たしてください。イエス様の御名によってお祈りいたします。アーメン。