新宿キリスト教会ブログ

今まで一度も福音を聞いたことのない方へ

【文字起こし】2024年10月6日 主日礼拝メッセージ『御座に出てともに恵みを受けましょう』(ヘブ4:14-16)

【文字起こし】2024年10月6日 主日礼拝メッセージ『御座に出てともに恵みを受けましょう』(ヘブ4:14-16)

 YouTube https://www.youtube.com/watch?v=HfN3QSWS9uk

 

"さて、私たちのためには、もろもろの天を通られた偉大な大祭司である神の子イエスがおられるのですから、私たちの信仰の告白を堅く保とうではありませんか。

私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。

ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。"

ヘブル人への手紙 4章14~16節

 

今このようにして、共に集まって礼拝を捧げているということは、神様から恵みが皆さんに注がれているという、そのような時間です。神様の恵みが十分にこの時間皆さんに注がれたとするならば、今皆さんがどんな問題、苦しみ、何かに直面していたとしても、「あ、それは大丈夫だ」というそのような答えが皆さんに臨むようになります。

 

ヘブル人への手紙のこの記者は「共に集まることをやめたりしないで」と、この手紙の後半にそのように書き送っています。つまり当時のヘブル人の信者たちは、色々な問題とか苦しみがあったために、共に集まって礼拝を捧げることをやめてしまったという、そのような歴史的な背景があるからです。

 

もちろん私たち日本にもまた世界中にコロナという問題が起こりましたから、その期間、その感染を防ぐために共に集まって礼拝を捧げることをやめざるを得ない、そのような時もありました。しかしコロナが収束した今は、共に集まってこのようにまた礼拝が捧げられるということは神様の大きな恵みです。ところがコロナが収束した今においても、一度教会から―コロナが一つのきっかけかもしれませんけれども―一度離れてしまった人がなかなか教会に集まって礼拝を捧げるために戻ってこない。そのような教会、そのような信徒の方々がたくさんいらっしゃるそうです。

 

もちろん一人一人が抱えているその問題は何か分かりません。教会に集まらなくなった原因とか理由は分かりませんけれども、しかし神様のことばである聖書は「共に集まることをやめたりしないで」とはっきりとそのように書かれていますから、可能な限り私たちは共に集まるということがどれほど重要なことで、神様の御心に叶うことなのかということを確認する必要があります。

 

一部礼拝が終わったらフォーラムの時間が持たれますけれども、そのフォーラムの時間は何かというと、今日のみことば、今日の祈り、今日の伝道ということをフォーラムしながら共に励まし合うという時間なんです。皆さんは共に励ましているというそういう感覚はないかもしれませんけども、なぜ共に集まらなければならないのかということは、私たち人間は弱いので共に集まって励ましたり慰めたりというその時間が必要だからです。

 

それで私たちは韓国の東部教会から日本に宣教師として今派遣されていますけれども、東部教会の信仰というのは信徒の方々一人一人が恵みを受けるようになるまで待ち続けるというそのような信仰です。なぜ待ち続けるのでしょうか。その理由は人間は人のことばによっては変わらないからです。もちろん人のことばによって心とか考え、あるいは少し生き方とか行いが変えられたというそのような証を聞くこともたくさんありますけれども、その証が届く範囲はそこまでなんです。どんなに人のことばが良かったとしても人間のたましい、霊にまでは届きません。人間の一番深いところにあるたましいと霊にまで届くのはただ生きて働く神様のことばだけです。

 

それで「神のことばは生きていて力があり、両刃の剣よりも鋭く、あなたがたの魂と霊にまで届く」とそのように言われています。その神のことばが皆さんのたましいと霊まで届く、それを私たちは待ち続けるということです。神のことばが皆さんに届いて、そしてまず最初に実感することは何でしょうか。もちろん「あ、神様から私は愛されている」とか「あ、私の罪は許されました」とか「あ、私の祈りは答えられます」とか、もちろんそのような実感が確信として与えられます。けれども、むしろ思いがけないほど「自分はこんなに汚れているのか」と「あ、私はもうダメだ」と「なんて私は惨めな人間なんだろう」と、このように自分自身の姿が見えてきた時に、「あ、本当に神のことばがその人に届いた」ということです。

 

自分自身の本当の姿が見えた時に初めて人は「あ、私は恵みを受けなければならない」そのことが実感として分かるようになります。自分が本当にどん底の状態にいる時に、その人が言えることは「助けてください」ということだけです。「哀れんでください」と目の見えない人はイエス様のところに来てただ一言「私を哀れんでください」と、そのように言っただけです。

 

「何をして欲しいのか」とイエス様がおっしゃいました。当然、目が見えるようになることです。神様の前に、イエス様の前に出たその目の見えない人は、「あなたの信仰があなたを救ったのです」目が見えるようになりました。そのように私たちも肉体の目だけとは限らず、心の目が開かれるようになります。それが御座に出て恵みを受けたということの一つの、自分で分かるそのあかしとなります。「あ、私は今まで本当に目の見えないものであったけれども、しかし今は少しずつ霊的な世界が見えるようになった」ということです。

 

すると今も私たちを御座に招いておられるキリストが3つの働きをしておられるのが分かるようになります。キリストは油注がれた方という意味であり、王と預言者と大祭司に油が注がれます。それでまず第1番目に、イエス様はまことの王として来られた方ですから、この王として来られたイエス様はその死によって、とあります。ヘブル人への手紙の2章の14節、イエス様の死というのは普通の死ではなくて十字架の死です。十字架の死によって何がなされたのでしょうか。まず悪魔という死の力を持つものを滅ぼされたとあります。この悪魔が滅ぼされたということは、そのしもべである悪霊、汚れた霊、そのような霊的な存在も当然滅ぼされたということです。汚れた霊がイエス様の元にやってきて「私たちを滅ぼさないでください」とそのように願っています。

 

それからこの悪魔という存在に、私たち人間は縛られていました。どのように縛られていたのでしょうか。「一生涯死の恐怖を持って縛られていた」とあります。どれほど死ぬことが怖いでしょうか。死そのものは一瞬ですから、きっと怖いとか痛いとかあんまり実感しないで死んでしまう人も多いと思います。むしろ問題は死後のことです。人は一度死ぬことと、死んだ後にさばきを受けることが定まっていますから。悪魔の子供というそのような霊的な身分で生まれてきて、悪霊と交わって、宗教であるとか偶像礼拝をしていたならば、当然永遠に滅びなければなりません。ハデスに下って最後の審判を待つ以外にありません。

 

そこからキリストはまことの王としてその死によって私たちを解放してくださったというのが、王としての働きです。そしてその結果、万物はキリストの足の下に今置かれています。神様が造られた被造物の中で無数の御使いが存在します。詩編の103編20節から22節に、この無数の御使いたちは「みことばの声に聞き従い、みことばを行う力ある勇士たち」とあるように、いつもこの御使いたちは神様の御座の前でひれ伏して礼拝を捧げています。それは今、天上においては同時に行われていることです。

 

それでこの御使いは主に仕えています。けれどもしかし仕えなかった御使い、それは古い蛇、悪魔となりました。この存在は第1ヨハネの手紙の3章の8節「神の子が現れたのは、この悪魔のわざを滅ぼすためです」とありますように、まことの王としてこの世の支配者、悪魔を完全にその足の下に置いています。からこの悪魔が働こうとする時には許可が必要です。神様が許したこと、それ以外のことは悪魔は一つもすることはできません。それが万物が足の下に置かれているということです。

 

それから天と地、とその中にある自然界があります。弟子たちがガリラヤ湖で船に乗っていた時に暴風が起こって、そして溺れそうになりました。その時もペテロはただ「助けてください」という以外にありませんでした。その時イエス様がおっしゃった言葉は「黙れ、静まれ」ということでした。風や湖までがこの方のことばを聞くとは、一体この方はどのような方なんだろうと。本当に力あるそのみことばによって全てを支配しておられます。

 

このまことの王である方が、皆さん一人一人、悪魔の子供から神の子供に皆さんが生まれ変わったとするならば、ヘブル人への手紙の1章の14節、御使いを仕える霊として、御座から遣わして下さっています。その証拠は何でしょうか。皆さんが祈る時に、黙示録の8章の4節、祈る時にというのはイエス様の名前で祈る時にということです。イエス様の名前で祈ったその祈りだけが御使いが御座に運ぶとあります。私たち信徒の祈りが御使いによって御座に届けられて、そして御座から答えが来ます。

 

どのような答えでしょうか。使徒の働きの27章の24節に御使いがパウロに言ったと。御使いのことばがパウロに臨みました。それは神様から伝えるように遣わされたので、メッセージを伝えたということです。どういうメッセージでしょうか。「恐れるな、パウロ。あなたはカイザルの前に立つ」という、このメッセージが届きました。

 

みことばだけではありません。ペテロは牢に捕らえられていました。次の日が殺されるという、そのような絶対絶命の状況に置かれていました。その時に教会は何をしたのでしょうか。教会は共に集まって、この牢に入れられたペテロのために熱心に祈り続けたとあります。この教会の祈りに対して神様が答えられて、使徒の働きの12章の11節、御使いが牢のところに遣わされてペテロを牢から解放しました。そのようにして今もまことの王であるキリストはこのように皆さんに働いてくださるということです。もうこれ一つだけ分かっただけでも、「あ、もう私の問題、皆さんの問題はない」というぐらいの答えが準備されています。

 

しかしキリストは王だけの働きではありません。まことの預言者の働きです。この預言者の働きをするために、肉体というご自分の垂れ幕を引き裂かれたとあります。ヘブル人への手紙の10章の20節。神殿、神様を礼拝するその神殿を上から見ると、このように入り口から入ると、この右側にはパンの机が置かれています。左側には燭台と言って、この暗い部屋を照らす光明りがあります。奥のところに契約の箱が置かれて、ケルビムがその翼でこの契約の箱を覆っています。

 

この入り口は聖所といって、奥が至聖所と呼ばれていて、この間にへだての幕が垂れ下がっています。この奥の至聖所には大祭司が年に1回だけ血を携えて入ることが許されている、それが至聖所です。ですから普通の人はこの至聖所に入ることはできません。イエス様がまことの預言者としてなされたこの働きは、この幕をその死によって真二つに引き裂かれたということです。つまり誰でも新しい生ける道を通ってこの契約の箱の前に出ることができるということです。

 

それではこの契約の箱の中には何があるのでしょうか。この至聖所にあるものは神のことばです。モーセを通して与えられた2枚の石の板のところに、神の指で十戒と呼ばれている神様のことばがそこに記されていました。つまり至聖所に入った人はその神様のことばを知ることができるということです。

 

それで「もし今日、御声を聞くならば」と。今日もし御声を聞くことができるなら、まことの預言者は今も生きて働いて皆さんに語ってくださるということです。その声を聞いたならば、それが今日のみことばです。「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことば、そのことばによって生きるもの」として神のことばは新しく生まれ変わりましたから、毎日神のみことばを聞いて成長するように私たちは造られています。

 

ですから「今日もし御声を聞くならば」注意しなければならないことは何でしょうか。それは「あなたがたの心を頑なにしてはならない」ということです。つまり不信仰になってはならない。神様のことばがどんなに信じられないようなことばであったとしても、「あ、私の頭では理解できないし、このことばは好きじゃないから信じない」と、それが悪魔の仕業です。悪魔は今も働いていて、皆さんにそのように語られる神様のみことばを信じさせないように今もそのように働いています。

 

信じない人にはこのみことばは成就しません。「神のことばを信じた私たちは安息に入ったのです」とありますように、約束されたように神様のことばは生きて働きますから、その心とたましいに安らぎが臨むようになります。もし信じなかったならば、サタンの要塞とあります。あるいはサタンのやぐらとそのように表現する方もいらっしゃいますけども、非常にこの世の考えであるとか、あるいは私の考えであるとか、サタンの考えであるとか、そのようなものに私たちの考えというのは縛られてしまっています。縛られていることさえも分からないので、サタンの要害、要塞ということです。

 

しかし神のことばが皆さんの心に届いて光が放たれたならば、それは今までの自分の考えというものを捨ててキリストにその人は服従するようになります。「あなたのみことばは私の足のともしび、私の道の光です」。みことばが行くべき道を照らしますから、「あ、私はこのみことばについて行こう」。今週、講壇からこのようにしてみことばが語られているのは、皆さんが1週間、初めて歩く新しい1週間の歩みを、どのみことばを信じ、神様の契約として現場で握って生きていったらいいのかということが、講壇から神様が語られますから。人間のことばとして聞かないで、まことの預言者であるキリストが今、今日、今週のみことばとして私に与えてくださっているのだと、そのような信仰に結びつける皆さん1人1人となりますように。

 

そうすると、まことの大祭司の働きが分かるようになります。まことの大祭司はどのような働きをなさるのでしょうか。今日の本文のみことばです。「ですから私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか」と、恵みの御座に皆さん一人一人を招いておられるということです。

 

それはまず、その方が「もろもろの天を通られた」ということは、つまり混ざから下られたという、こういう意味があります。もともと神の御子は天の右の座についておられて、御座におられて栄光で輝いていました。しかしそのままでは私たち人間はこの悪魔に支配されて、この世の色々な宗教の教えに縛られながら永遠に滅びてしまいますから、この御座から降りてこられました。

 

それがヨハネ福音書の1章の14節、「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた」。私たちと同じような人間となって、肉と血を持ってこられたということです。その目的は何でしょうか。マルコの福音書の10章の45節、王の働きは悪魔という死の力を持つものを滅ぼす、預言者の働きは今まで神のことばが聞こえなかった私たちに神のことばが聞こえるようにしてくださる、その道を開くこと。そして大祭司の働きは、「私はあなたがたのために命を捨てるために来たのです」と言われました。

 

十字架の上でご自分の命を捨てなければ、私たちをこの問題から解放することができませんから。そのために御座におられたひとり子の神が人となって来てくださって、十字架の上でいのちを捨ててくださいました。その結果、エペソ人への手紙の1章の20節、「十字架の上で死なれたキリストを神はその優れた力をもって死者の中からよみがえらせ、そして神の右の座につかせられた」とあります。まず下ってきてくださったということです。

 

下って来られた方が再び御座にのぼられた。今は御座について栄光と誉れの冠を受けておられ、万物をその足の下に収めておられます。それでこの方は人間となってこの世に来られたために、ヘブル人への手紙の2章の17節というところに、とても哀れみ深い方でいらっしゃるということです。人間となってくださったということは、人間がどういうものか、その弱さであるとか色々なことを自分が体験したために、哀れみを持つことができる、そのような大祭司となられたということです。

 

そしてそれだけではなく、もう一つは試みを受けられたとあります。マタイの福音書の4章の1節から11節、イエス様が40日の断食を終えられた後に、悪魔がやってきてイエス様を試みられたとあります。もちろんその時だけではありません。折にふれて悪魔はイエス様を試みられました。それで試みられる、試練に会うということがどれほど大変なことなのかということを、このまことの大祭司はご存知でいらっしゃるということです。ご存知であるので助けることがおできになるということです。

 

それで御座から皆さんを招いておられます。助けることができないのに招いたとしたら無駄なことですけれども、イエス様は「すべて疲れた人、重荷を負っている人は私のもとに来なさい」と呼ばれたということは、疲れとか重荷を負っている人はそこから解放させてあげることができるということです。魂に安らぎが来るようになる、そのことを体験した人は今度は御座に出よと。「あ、私は今色々な弱さがある」と、そのような弱さを抱えているけれども、自分では絶対に解決できない、人の助けを得てもこれは解決しないという時に行くべきところはただ一つ、御座に行くだけですからコリント人への手紙第二の12章の2節、パウロは第三の天にまで引き上げられたとあります。これは祈ったということです。私たちがこの地上で祈る時に、私たちのたましいはある意味キリストの復活とともに私たちも蘇られて、御座のところに座らせられていますから、私たちがひざまずいて祈っているその状態というのは、御座の前に出ているということです。

 

それでパウロが祈った祈りは何でしょうか。本当に私はサタンが肉体にとげを与えてとても痛いですから、この肉体のとげを取り去ってください。これがパウロの祈りの課題でした。

 

そのパウロの祈りの課題に対してイエス様はどのようにお答えになったのでしょうか。第2コリント人への手紙の12章の9節、まことの預言者であるキリストはみことばによって答えられます。「私の恵みはあなたに十分である」これが答えでした。

 

人によってはその神様のみことばが臨んだら、それで問題が解決するということも度々あります。例えば恐れていたり不安だったりする時に、突然まことの預言者であるキリストのみことばが臨んで「恐れるな。私はあなたと共にいる。たじろぐな。私があなたの神だから」。その一言が臨んだならば、自分の中にあった恐れとか不安、そのようなものは消え去っていきます。

 

ですからある場合はみことばさえ臨めば十分な答えだということもあります。しかしここではもちろんみことばが臨みました。それだけではなく実際の助けが与えられました。それは「あなたのその弱いところには私の力がその弱さを覆うから、キリストの力が覆うから大丈夫だ」ということです。

 

その力に覆われたならば、本当に自分は弱かったとしても全く問題ではありません。多くの人が自分の置かれている環境が悪いとか、自分の家庭がすごく悪いとか、色々な病気があるとか、経済が問題だとか、もちろんそのようなことで恵みの御座に行くでしょうけれども、答えは「キリストの力があなたに覆う」と言われたならば、もうそれで十分ということです。

 

なぜならば、今までとその家族から出るわけでもなく、今までその病気がなくなったというわけでもないかもしれません。パウロはその肉体の痛みというそのとげは依然として突き刺さったままです。それでも関係ないということです。普通の人ならばその肉体のとげが取り除かれて痛みがなくなったから「あ、私は答えられた」とそのような証しをするでしょう。けれども、しかし神様の助けはそうとは限らないということです。

 

私たちが要求した、願った、祈った通りの答えではない、それが神様の答え、助けであるということがあります。ペテロの場合は御使いが助けに来たり、また他の人の場合だったらただみことばが臨んだだけで十分であったり、しかしここでは聖霊に満たされる、恵みに満たされるというそのような神様の恵みが十分であったならば、それは置かれている状況というものがそのままであったとしても、それは問題ではないということです。

 

私たちは今日共に大胆に恵みの座に出ようではありませんか。そのように招かれています。「今日もし御声を聞くならば」とありますように、そのみことばを聞いたならば私たちがまずできることは祈るということです。祈り始めたということはその恵みの御座に出たということです。で、祈ってただ自分の言い分だけ言って終わるのではなく、主が私に何を仰せられるのか聞かなければなりません。「私の恵みはあなたに十分である」というのか、どのみことばが皆さんに臨むのか、それは私にも全く分かりませんけども、必ずまことの預言者であるキリストはみことばを持って答えてくださるということです。

 

そしてその結果、皆さんに仕えるように御使いが遣わされたり、また聖霊に満たされ力に満たされたり、信仰に満たされたり、恵みに満たされるということがなされたならば、今の置かれている状況、環境、境遇、それは依然としてそのままであったとしても、全ての問題は完了したと、そのようにイエス様が十字架でおっしゃったその言葉は「アーメン、本当にそうです。私の全ての問題は十字架で終わりました」。

 

そのような信仰に立つことができるのが、この恵みの御座に大胆に出た人に与えられる神様の答えです。そのような信仰が皆さん一人一人に与えられますように、主のみ名で祝福をお祈りいたします。

 

父なる神様、恵みを感謝をいたします。今日御座におられるキリストが一人一人に今助けを必要としているその折に叶う助けとなる十分な恵みを与えてくださると信じます。イエス様の御名によってお祈りいたします。アーメン。