新宿キリスト教会ブログ

今まで一度も福音を聞いたことのない方へ

【書き起こし】2024年11月3日 主日礼拝メッセージ『キリストの血の力』(ヘブ9:11-15)

2024年11月3日 主日礼拝メッセージ『キリストの血の力』(ヘブ9:11-15)

YouTube https://www.youtube.com/watch?v=8qFRJc4_28I

 

"しかしキリストは、すでに成就したすばらしい事がらの大祭司として来られ、手で造った物でない、言い替えれば、この造られた物とは違った、さらに偉大な、さらに完全な幕屋を通り、

また、やぎと子牛との血によってではなく、ご自分の血によって、ただ一度、まことの聖所に入り、永遠の贖いを成し遂げられたのです。

もし、やぎと雄牛の血、また雌牛の灰を汚れた人々に注ぎかけると、それが聖めの働きをして肉体をきよいものにするとすれば、

まして、キリストが傷のないご自身を、とこしえの御霊によって神におささげになったその血は、どんなにか私たちの良心をきよめて死んだ行いから離れさせ、生ける神に仕える者とすることでしょう。

こういうわけで、キリストは新しい契約の仲介者です。それは、初めの契約のときの違反を贖うための死が実現したので、召された者たちが永遠の資産の約束を受けることができるためなのです。"

ヘブル人への手紙 9章11~15節

 

1部「キリストの血の力」(ヘブル9:11~15)

 

キリストの十字架の救いは完全なものです。その救いに与ったと救われたという喜び、それが私たちの信仰生活、教会生活です。それで毎日、自分が救われているということがどんなに神様の恵みであるのかということを味わっていると、いろんな問題が来たとしてもそれは問題ではありませんけれども、しかし毎日喜びに与っていないと、問題とか苦しみとか、あるいは迫害が来てしまったりすると、今まで教会に集まっていたその人たちが集まることをやめてしまったり、色々な苦しみの中で信仰から離れていってしまうようになります。そのような状況の中に置かれていたのが当時のヘブル人でした。それでこのヘブル人への手紙を書いた記者は、そのような状況を見ながら、今まで過去にヘブル人の人たちが神殿で礼拝を捧げ、生贄や捧げ物を捧げ、また大祭司が立てられていたというようなそのようなものにキリストはまさる方なんだということを、この箇所で詳しく書いています。

 

それでこのヘブル人への手紙の書かれている内容が本当に分かると、どのような苦しみとか迫害、あるいは試練が来たとしても、それは何も問題ではないということが分かるようになります。その鍵となることばがキリストの血ということです。キリストが血を流されたその血がどれほどの力があるかということです。今皆さんがこのところで礼拝を捧げている、そのような神の子どもになったという、その背後に働いたのはキリストの血の力です。そのキリストの血の力が働くと、お読みしたヘブル人への手紙の9章の14節、「まして、キリストが傷のないご自身をとこしえの御霊によって神にお捧げになった血は、どんなにか私たちの良心を清めて死んだ行いから離れさせ、生ける神に仕えるものとすることでしょう。」

 

キリストの血の力というものは、偶像から私たちを完全に離れさせるということです。つまり、キリストが本当に分かったとその瞬間に、今までそれまで自分がこれが素晴らしいと思っていたもの全ては偶像であったということが分かるようになるということです。もちろんその中には宗教という悪いものも含まれていますけれども、悪いものではなくたとしても、それはキリストにとって私は偶像になっていたと、その本当にキリストを知ったという時に心の目が開かれて、今まで自分が仕えていたもの、今までこれが一番素晴らしいと思っていたものは皆偶像にすぎないということが分かるようになる、それがキリストの血の力です。

 

それで神様はまず第一番目に初めの契約を人間に与えられたとあります。この初めの契約というのはヘブル人への手紙の8章の7節です。この契約が与えられたのは出エジプト後のことでした。この出エジプトというのは旧約聖書の中では救いのひな形を意味していますから、この出エジプトしたということはそれまで自分は奴隷だったけれども、その奴隷から解放されたということが意味されています。

 

この奴隷というのは当時はエジプトの王パロですけれども、それはある意味この世を支配するサタンのひな形です。それで私たちが出エジプトしたということは、サタンの支配から解放されたということです。あるいはこの奴隷というのはこの世の奴隷でした。契約の民はエジプトの奴隷として毎日レンガを造っていました。私たちも過去はこの世の流れに従って自分がどこから来てどこに行くのか全く分からない状態でしたから、世の中の奴隷となっていました。今もほとんどの人たちは自分はそうではないと思っているでしょうけれども、実際にはサタンの奴隷、そしてこの世の奴隷というそのような状態です。

 

そこから解放する力はただ一つでした。羊の血が流されるということです。それが出エジプトすることができたただ一つの原因です。ですから羊の血を塗っただけなのに一瞬のうちに奴隷から解放されるということ、それがその背後に神様が与えてくださっているその初めの契約の意味があります。門柱とかもいに血を塗りなさいと。血の量ではなく、ただ自分の家に臨む呪いと災いは完全にその血を神様が見たら過ぎ越していく。もし血が流されていないならばその家には呪いと災いが臨みますから、初子が滅びていく、死んでいく、そのような血の意味があります。

 

それで出エジプトをした後に神様が荒野へ導かれて、その荒野にはシナイ山がありました。そのシナイ山で初めの契約が与えられました。それが十戒というのがその契約の中心です。あるいは、律法と。当時の人たちはこの十戒が与えられた時に、私たちはそれを守りますと、そのように告白しました。告白した通りに十戒を守り通したでしょうか。聖書では守り通さなかったとあります。

 

つまり行いによっては十戒は不可能であるということです。神様がその与えた戒めですから聖なるものですけれども、しかし創世記3章の人間、神様から離れてそして罪の中に死んでいるそのような人間に、外側からこういうことを守りなさい、こういうことはしていけませんと、どんなに教えてもそれは意味がないということです。子どもを教えている、育てているお母さんならばよく分かると思いますけれども、どんなに子どもを叱ったとしてもそれで子どもが治るということはありません。子どもの方で本当に自分は悪かったと、そのことが分かって、お母さんが話してたこと、お父さんが言ってたことは本当は正しかったんだと、その心の中で子どもが理解した時に初めてその今まで叱られていたことが少しは治るようになります。

 

それと同じように、外側からどんなに石の板に書かれているその十戒を教えても、人間にはそれを守ることができません。それでパウロという人はこの十戒、律法というものは福音を知った後見てみると、自分を死に導くものだということを知ったとあります。つまり文字は殺す働きしかないということです。私たちを罪に定めます。第2コリント人への手紙の3章の6節、神様から与えられた律法を守ろうと思っても守り通すことができません。

 

それで神様が与えてくださった約束の地カナンに入ってきました。カナンの地にあったものは全て偶像ですから、神様は偶像を滅ぼしなさいと言いました。滅ぼしたはずなんですけれども、しかし完全には滅ぼしきれませんでした。それで偶像が少し残ったままカナンの地に入って、そしてそこで生活するようになった時に、この契約の民がしたことは何でしょうか。カナンの地に自分たちが残しておいたバアルであるとかアシェラであるとか、そのような偶像に仕えるようになってしまったということです。

 

それでその後そのカナンの地、約束の地にソロモンによって立派な神殿が立てられました。表向きは神殿で礼拝を捧げるようにしますけれども、しかしその人間の心というものは闇であり思いは虚しいですから、結局は偶像によってその心の闇あるいは思いの虚しさということを満たす以外にありませんでした。荒野から荒野で最初に造ったのは金の子牛でした。もう、いつもこの契約の民がすることは偶像を造ったり偶像の前でひれ伏したりというようなこと。それで預言者エレミヤを通して、もうこのような契約はもうダメだと、私はあなた方に新しい契約を与えると、そのようなメッセージが伝えられました。エレミヤが伝えたメッセージは、もうあなた方はこの文字によって人から教えられたその神について知ることではなくて、自分の心の中、その思いの中に神を知ることができる、そのような心、思いが与えられる、それが二番目の新しい契約です。

 

この神様が新しい契約を与えると約束した時にまず必要なことが、完全な幕屋でした。もちろん荒野で神様に示されたそのかたち通りに幕屋は造られました。その人間の手で造った幕屋というのは天にある幕屋のひな形ですから本物ではありません。本物の幕屋がこの地上に来たということです。ヨハネ福音書の1章の14節、「ことばは人となってこの世に来られた」とあります。それから「この方の中にいのちがあった。このいのちは人の光であった」。このようにしてことばが人間となってこの世に遣わされた、これがクリスマスの出来事です。神様がご自身のひとり子をこのように送ってくださいました。

 

目的は何でしょうか。その目的はシナイ山の契約ではなく、カルバリ山の契約を与えるためです。カルバリ山の契約というのは何でしょうか。それはヨハネ福音書の19章の30節、創世記3章から始まった人間の全ての問題は完了した、これがカルバリ山の契約です。それを福音と言います。キリストの福音です。どれほど私たちにとって喜びの知らせでしょうか。本当に福音が喜びの知らせだということが分かると、この救いは完全ですから毎日喜びを味わうことができますけれども、しかしこの福音が全ての問題の解決だということが分からないと、問題の方が大きくなってしまったり、試練の方が大きくなってしまったり、苦しみの方が大きくなってしまいます。そうすると神様から離れていってしまいます。ですから福音を知ることが信仰生活の全てですからイエス様はキリストとしてまことの王の働きを十字架の上で成し遂げられました。それが悪魔という死の力を持つものをご自分の死によって滅ぼされたということです。この世の王サタンは完全にその権威が縛られて、もう私たち神の子どもたちでさえも、ナザレのイエス・キリストの御名によってと言ったら、その悪魔は退く以外にありません。それでパウロは「平和の神は速やかにあなた方の足の下でサタンを踏み砕いてくださる」と言われました。この王としてイエス様が成し遂げられたこと、その権威は皆さんに与えられていますから、この権威が福音を知ったということは使えるようになるということです。

 

色々な苦しみの背後で働くのはサタンですから、そのサタンが働いているということが心の目が開けば見えるようになりますから、そうすると邪魔をする暗闇の力、サタンはキリストの御名で命じる、退け。これが福音によって与えられている権威です。

 

それから大祭司として、先ほどのみことばにありましたように、ヘブル人への手紙の9章の12節です。「またやぎと子牛との血によってではなく、ご自分の血によってただ一度まことの聖所に入り、永遠のあがないを成し遂げられた」のです。あがないというのは救いですから、そのあがないはただ一度で完全で永遠である、このことを悟っただけでも罪に定められることはない、神様がその罪を思い出すことはないというそのみことばが成就しますから、私の罪は皆キリストの血によって赦されて清められているという確信が与えられるようになります。

 

そしてもう一つ、キリストはまことの預言者ですから、神様から人間が離れたということは神のことばから離れたということですから、この肉体の垂れ幕を裂かれたことによって、至聖所に私たちが入ることができる道を開いてくださいました。つまり神様のことばが皆さんに臨むということです。

 

それでイエス様をキリストとして、この完全な幕屋として来られた方は、その名をイエス様とつけられました。そののイエスとつけられた方がカルバリ山でキリストの働きをされた、これが福音ですから、このイエス様をキリストとして自分のその心の中に受け入れをする瞬間があります。あ、本当に私はキリストが必要だ、私は神様から離れているし罪を犯しているし悪魔に完全に支配されているから、この預言者、大祭司、王としてキリストが全ての問題を十字架の上で終わらせてくださったことを信じます。そのように受け入れた時に起こることが第1コリント人への手紙の2章の12節です。「あなた方はこの世の霊を受けたのではなく、神の御霊を受けました。それは神様の恵みによって与えられている賜物、祝福がどのようなものであるかを知るためです」とあります。

 

エス様を心の中に受け入れたということは、このことがその人の中に臨んだということですから、生ける神のことばが皆さんの中に刻印されて永遠のいのちが与えられ、まことの光が心の中に臨みます。今までは闇でしたけれども暗闇でしたけれども、今はキリストにあって光となりました。それで神殿、あなたがたの体は神の神殿であって神の御霊が宿っている、この状態になります。受け入れた瞬間です。受け入れた瞬間に全ての問題は終わっているということです。

 

ところがいくら「あなたの問題は終わってます」と言っても、「いやお金が」とか「いや病気があって」とか「いや家族の中でこういう問題があって」と、そこで大体の人はその現実に起こっている問題をそのように言って、自分の中にこのことがなされているということが悟ることができません。実際にはこのような状態なんですけれども、そのことがわからないと「いややっぱり私の問題は終わってません。イエス様がキリストで全ての問題を終わらせたと信じられません」と、そういう風に言います。

 

心の目が開かないとどんなにことばで説明してもそれは無駄なことですけれども、できないことですけれども、しかしある日神様の恵みによって心の目が開いた、その瞬間にキリストがどのような方でいらっしゃるか、この王として大祭司として預言者として問題が全て終わらせてくださったということが分かった時に、「あ、私の問題というのは現実にはあってもやはりイエス様が完了したと言われたならば、もうそれは終わっているんだ」と。それは自分の肉から出る信仰ではなくて、神様が恵みによってそのような信仰を与えてくださいます。問題があったとしてもですね、ですからあるんですけれども、でもそれは終わっている。あなた方の中におられるキリスト、つまりキリストを正確に見たということです。

 

人から「あなたの問題は終わってますよ」と教えられたとしても、それは律法で外側から言っているような状態ですから、何度繰り返し「あなたの問題は終わってます」と言っても相手は終わりません。しかしこの世の霊、不信仰を受けたのではなくて神の御霊を受けました。神の御霊がその人の中に入って、あ、自分の中におられるキリストですから、自分の中にキリストがおられるということが本当に分かったならば、それで完了なんですけども、実際には自分の中にキリストがおられるということがどうやらよく分かってない、そういう状態です。

 

世に渡って長い間これは隠されてきた奥儀ですから、神様が啓示してくださる以外にありませんけれども、しかし神様がこのキリストを皆さんに啓示してくださったならば、今どんな問題が例え起こっていたとしても、それは関係ないということです。それはなぜかと言うと生ける神に仕えるものとなったからです。それがキリストの血の力です。キリストが十字架で血を流してくださったとすれば、信じた皆さんは当然キリストに仕えるものとなる、そのようなはずです。

 

ローマ人への手紙の14章18節で、キリストが私たちの中に内住してくださっているというだけではなくて、図で説明すると、私たちの心の王座について主人となってくださり、私がここにいるのがこのキリストに仕えるものとなったという、その絵ですね。

 

以前は私たちはこちらにいたわけですけれども、しかし立場が逆になりました。私はキリストに仕えるもの、つまりキリストが私の主人となってくださっているということが確かであれば、自分の力ではいろんなものが絶対に不可能ですけれども、しかしキリストが私の中にいてくださって、代わりにご自分の働きをしてくださったならば。カナの婚礼の時にぶどう酒がなくなってしまったという問題が起こった時に、このキリストが水をぶどう酒に変える。それはイエス様をお客様として迎えたのではなくて、この方が言うことは何でもその通りにしてくださいと、そのようにマリアが言った。その言葉の通りに、しもべたちがこのイエス様のことばに、その通りに水を入れなさいと言えば水を入れて、今汲みなさいと言えば汲んだら、いつの間にか水がぶどう酒に変わっていた。

 

そのように、自分が主人となっていたらサタンがいろいろ攻撃して不信仰になってしまいますけれども、キリストが主人となってくださったならば、完全にまことの王として勝利してくださっていますから、私たちの生涯に起こる問題は問題ではなくて、祝福を受ける機会になります。

 

2つ目に、生ける神に仕えるものとなったということは、御霊に仕えるものとなるということです。第2コリント人への手紙の3章6節、このみことばはここと同じですから、文字は殺し、御霊は生かす。そのような働きをするようになるということです。

 

肉によって人を生かすことはできません。文字によってももちろん生かすことはできません。いのちを与えるのは御霊です。そのいのちの御霊が皆さんの中に来ているということは、皆さんはみことばに仕えるようになります。今日のみことば、神様が今日もし御声を与えてくださったならば、どのようなみことばなんだろうかと、そのみことばを聞こうとします。

 

今日の祈り、この与えられた契約を握って祈るようになります。そして今日の礼拝、今私たちがこのようにして共に集まっているのは、御霊と真理のみことばによって礼拝をするためです。一切偶像のようなものから解放されていますから、ここには目に見えるようなそういう偶像はどこにもありません。これが神ですと言えるならば、それは全部偶像です。神は霊ですから、神を礼拝するものは御霊がその人の中に宿っていて、そして真理のみことば、聖書のことばを持って私たちは神様を今礼拝しています。このような礼拝者を父は求めておられます。

 

それで最後に、生ける神に仕えるものとなったということは具体的に何に仕えるのでしょうか。それは神がご自身の血をもって買い取られた神の教会に仕えるものとなります。使徒の働きの20章28節、教会に仕えるということは何をするために教会に仕えるのでしょうか。

 

多くの人たちは教会の中でいろんな奉仕がありますから、その奉仕をする、それが神様に仕えていることだと、そのように理解します。もちろんそれは正しいことであっていますけれども、大体普通の教会員となった人たちはそのように教会で奉仕をして献金を捧げ、そういうことが神様に仕えてることだと、そういう風に思い、教会に仕えてることだと、そういう風に思います。

 

しかし教会に仕えるということで、普通の教会の人たちが見落としていることが1つあります。それが何でしょうか。コロサイ人への手紙の1章25節、パウロは自分は教会に仕えるものとなったと告白した後で、教会に仕えるということは神のみことばを余すところなく述べ伝える者ですと、そのように告白しました。

 

エス様がご自分の体である教会を造られました。教会はキリストの体で、頭はキリスト。皆さんはその体です。頭であるキリストのその考え計画は、まだ1度も福音を聞いたことのないその人に、この福音、素晴らしい喜びの知らせを宣べ伝えること。それが神様の計画で御心ですから、体である私たちはその1つ1つの器官として現場に遣わされて、神のことばをまだ1度も聞いたことのない99%の異邦の、そのような民に伝える。これが教会に仕えるということの、目に見える1つの現れです。

 

それをする力が、キリストの血の力ということです。皆さんに頑張ってやってくださいという話はどこにもありません。自分でさえもそんなこと自分でやったら、もうヘトヘトになって疲れてしまってやめてしまいます。しかしキリストの力、その力、血の力が皆さんに働いたということが、今皆さんがこの所にいるということの証拠です。その力が皆さんのうちに働いたので、皆さんが恵みのゆえに救われました。救われただけではなく、教会に共に集まって礼拝を捧げています。そして礼拝が終わった時には、今度は聖徒の交わりがあります。

 

非常に教会にとって聖徒の交わりということも重要なことです。フォーラムをしながら共に慰め励まし合うことが必要です。だからヘブル人への手紙の記者は、共に集まることをやめたりしないでと言っているわけです。

 

いかに多くの人たちが共に集まることをやめてしまうのでしょうか。それはこのキリストの福音が正確に分からないと、そのようにして散らされてしまうからです。しかしイエス様はその散らされていった人たちのためにも、今も御座で取りなしてくださっています。ですから帰ってきたならば、ああ本当にキリストが取りなしてくださった、その力が今まで離れて信仰を失ってしまったような人たちをまた戻してくださったんだということが分かるようになります。

 

キリストの力が私たちに働くと、今度は伝道と宣教に向かっていくようになります。これは私たち皆さんが一生懸命頑張ってするというようなそういう話ではなく、皆さんのうちにどなたがいらっしゃるのでしょうか。あなた方の中におられるキリスト、そのキリストの力によって労苦しながら奮闘する、これが伝道と宣教です。皆さんの力で労苦や奮闘したら終わってしまいます。しかしキリストの力は永遠であり無限ですから、その限りのないキリストの力が皆さんに与えられて、そして満たされたならば、この希望は絶対に失望に終わることはありませんと。落胆するような状況に例え置かれていたとしても、いつも希望が持てます。

 

私ではなくキリストがご自分の働きをしてくださるんだ。私はいつも喜んでいればいいわけです。皆さんもいつも喜んでいればいいです。キリストが私と共におられて私を完全な救いの中に入れてくださった、それだけで十分です。それでそのことを今日も味わいながら、キリストの血の力、これが皆さんを根本的に内側から変える神様の働きです。

 

ですから福音には力があります。本当にキリストを知ったならば、頭で知ったならば、それは別の話です。本当に御霊が皆さんの中に宿って、御霊によってキリストが啓示されたならば、それは全ての問題は終わった、そのような結論が自然に出るようになります。その祝福を味わう皆さんお一人お一人となりますように、主の御名で祝福をお祈りいたします。

 

父なる神様、今日も私たちを子どもとして呼んでくださり、共に集まって礼拝を捧げることができる恵みを心から感謝をいたします。御座についておられる方と子羊とに全ての栄光とほまれと賛美をお捧げいたします。キリストの血の力を悟ることができますように心の目を開いてください。不信仰にさせるサタンと暗闇の力をキリストの御名によって完全に縛り退けてください。イエス様の御名によってお祈りいたします。アーメン。