【書き起こし】2024年11月10日 主日礼拝メッセージ『罪を取り除かれるキリスト』(ヘブル9:22-28)
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"それで、律法によれば、すべてのものは血によってきよめられる、と言ってよいでしょう。また、血を注ぎ出すことがなければ、罪の赦しはないのです。
ですから、天にあるものにかたどったものは、これらのものによってきよめられる必要がありました。しかし天にあるもの自体は、これよりもさらにすぐれたいけにえで、きよめられなければなりません。
キリストは、本物の模型にすぎない、手で造った聖所に入られたのではなく、天そのものに入られたのです。そして、今、私たちのために神の御前に現れてくださるのです。
それも、年ごとに自分の血でない血を携えて聖所に入る大祭司とは違って、キリストは、ご自分を幾度もささげることはなさいません。
もしそうでなかったら、世の初めから幾度も苦難を受けなければならなかったでしょう。しかしキリストは、ただ一度、今の世の終わりに、ご自身をいけにえとして罪を取り除くために、来られたのです。
そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっているように、
キリストも、多くの人の罪を負うために一度、ご自身をささげられましたが、二度目は、罪を負うためではなく、彼を待ち望んでいる人々の救いのために来られるのです。"
ヘブル人への手紙 9章22~28節
1部「罪を取り除かれるキリスト」(ヘブル9:22-28)
私たちにとって、できれば避けたいと思う嫌なことの1つは、どん底に落ちることではないでしょうか。どん底と言うと、大体の人の考えは、お金が底をついてしまうとか、あるいは家庭が崩れるとか、医者からあと何ヶ月というような、そのような死の宣告を受けると、どん底だとそういう風に感じると思います。
で、今お話ししたどん底というのは、そういう実際的な問題が起こるその原因のことです。元々人間というものが素晴らしいものとして造られましたけれども、しかしその人間がどん底に落ちてしまいました。その証拠が、例えばイザヤという預言者は、「本当にもう私は汚れたものだ」と、そのように自分の姿が見えました。
「私はもうダメだ」と預言者がもう自分が汚れたものだということは、自分の口から出ることばが汚れているということです。それはことばの問題ではなくて、心にあるものが口から出るものです。ですから自分の心が汚れているということをイザヤは知って、「私はもうダメだ」と、そのように告白しました。
それからパウロという人は「私は本当に惨めな人間だ。一体誰がこの私を救ってくれるだろうか」と。なぜ自分が惨めなのかと言うと、自分の中にあるものは罪と悪である、罪と悪が自分の中に内住しているということが分かったということです。それで本当にもう「私はダメだ」と絶望しています。
で、本当にそのようにどん底まで霊的に落ちたということは、ある意味神様の恵みです。どん底に落ちるということは、あとは登る一方です。霊的なサミットの座につく人、そのような人はある意味どん底に落ちなければ、霊的なサミットの座、山頂にはたどりつけないかもしれません。
それでやがてイザヤは霊的な山頂に登り詰めた時に、新しい天と新しい地が準備されているというのを見ました。でパウロもまた霊的なサミットの座についた時には、色々な問題が自分を取り囲んで実際に自分は苦しむ、そういうような状況に置かれているけれども、「私は勝ち得てあまりある」圧倒的な勝利者だと、そういう風に宣言しました。
ヨブの生涯もまた、そういう意味ではどん底まで落ちました。でどん底に落ちた時に、「私をあがなう方」、つまりキリストです。この「私をあがなうキリストは生きておられる、そしてそのキリストを私はこの目で見る」という風に告白しました。
どん底に落ちたことによって、初めて今まで自分が正しいと思っていたヨブは、「正しいのは私ではない、神様が正しい方だ」という絶対的な神様の義を見ることができました。神の義はキリストです。キリストを見たということは心の目が開いたということです。
そういう意味で神様は私たちをどん底に落とされるかもしれません。しかしそれは私たちが失望したり落胆したりというそのためではなくて、あるいは見捨てられたというためではなくて、そこから本当に素晴らしい世界というものがあるということを見せてくださるためです。
でそれは今日の本文で言いますと、全ての人間は神様によって定められていることがあるということです。もうすでにこれは決定していることです。人間がどうのこうの言ったからと言って変更されるということは絶対ないこと、それが神様が人間に定められたことです。
人は1度死ぬこと、死んだ後さばきを受けるという、この2つのことは全ての人間にもう決定しているということです。でその原因は何でしょうか。それは1人の人からでした。ローマ人への手紙の5章の12節、1人の人アダムが神様のことばを破ったということです。それを聖書で罪と言います。神様のみことばに対する違反です。
でこの罪がアダムに入ったことによって、死が全人類に臨むようになったということです。それは前もって創世記の2章の17節、エデンの園で善悪の知識の木の実を取って食べるならば、つまり神様のことばを違反するならば、あなたは必ず死ぬ、前もって神様がおっしゃっていたそのことが人間に成就したということです。
罪と死の原理の中に全人類が支配されるようになりました。ローマ人への手紙の3章の23節、全ての人は罪を犯したので神様の栄光には届かない。罪を持っている人間、しかも悪魔の子どもというそういう身分の人間が神様の栄光のレベルに届かないということは当然のことです。
それは全ての人間はアダムの子孫として生まれてきますから、生まれた時からただ罪を持ってるというのではなくて、原罪という、その創世記3章の霊的なDNAを母の胎内にいた時から、もう遺伝のように受け継いでるということです。それは自分とは全く関係のないことです。皆さんとも全く関係のないアダムの違反の結果です。
しかしそれが私たちに関わってくるのは、私たちの生まれてくる家庭、それから家系を見る時に、間違いなく神様から離れてその家庭がありましたから、皆、偶像礼拝をしてきたということです。アブラハムの家庭も例外ではないために、神様はその「自分の生まれ故郷、あなたの父の家から出なさい」と、そのように言われました。創世記の3章の7節。
偶像礼拝をしている家庭、家系ですから、呪いと災いが絶えずその家に臨み続けているということです。で自分と関わってくるのは3つ目の罪過というものです。エペソ人への手紙の2章の1節、これは自分が実際に犯した罪のことです。過去を振り返ると、数えきれないほど罪に罪を重ねてきました。
その根本的な原因は、神様から離れてたましいが死んでいるという状態からもたらされる偶像礼拝であり、また自分自身の実際の罪の行いです。これは状態ですから、霊的に死んでしまって闇がその心の中を支配してる状態ですから光である神様を知らないし、神様と交わることができないので、その神様の代わりに代理として偶像に仕えるようになるしかないという、その呪いと災いが全人類に臨んでいるということです。
そして全ての人は、この人間の定められている運命から逃れることができません。自分の力でももちろん不可能ですし、宗教に行ってもこの運命から救われるそのような道はどこにもありません。未だに人間は1度死ぬ、その人がなぜ死ぬのかと言うと罪があるということです。この罪、違反がその人にあるので死ななければならない。違反がもしその人にこのどれにも当てはまらなかったとすれば、永遠に生き続けることができるわけですけれども、しかしいつかは死ぬということは、この定めの中、この運命の中に支配されているということです。
で死んで終わりだと思う人が多くいます。死んだら全て、たましいも何も消滅してしまう、そのように考えてる人がいますけれども、しかし聖書はそうは言っていません。ヘブル人への手紙の9章の27節、死んだ後にさばきが待っているということです。ということはやはり人間のたましいというものは永遠に生き続けて、そしてどこにそのたましいが行くかということが決まってるわけです。
このままの状態で行ったならばどうなるのでしょうか。黙示録の20章の15節、最後の審判が待っていますから、そのところで、いのちの書にこの人の名前はどこにも書かれていませんから、悪魔とそのしもべたちのために用意されている永遠の火、それが最後の神様の審判です。これが人間、全ての人間にもう決定していることです。
それでも神様は愛ですから、このような運命の中に支配されている人間をこの中から救い出したいと、そのように計画されました。それが原因となっている罪を取り除く、その必要があります。このために、キリストを遣わすということです。これは人間がエデンの園で罪を犯した後に神様が計画したことではなくて、もっと前からです。世の初めから。黙示録の13章の8節に「世の初めから屠られた神の子羊」とあります。屠られたということは、生贄として血を流すということです。神様が人間、最初の人間を造る前から、世界の基に置かれる前から、このように人間というものが造られた後にはこうなるということを全て前もってご存知ですから、そのような人間を救い出すために神の子羊を準備されたということです。
この神の子羊が世の終わりに来られました。ヨハネの福音書の1章の29節、バプテスマのヨハネがイエス様を見た時に言われた言葉が「見よ、世の罪を取り除く神の子羊」。このようにして私たちのこの決定されている運命、呪いと災いを完全に取り除いてくださる方を神様は遣わしてくださるという約束をしてくださり、その約束の成就してくださる方が来られたので、ヘブル人への手紙の記者は完全にこの約束が成就したと言われました。ヘブル人への手紙の9章の12節。当時のユダヤ人というのは、第一の天、第二の天、第三の天というように3つの天があると、そういう風に考えています。この第一の天っていうのは「天は神の栄光を表し、大空は御手のわざを告げ知らせる」と。私たちのこの肉眼で見える世界ですけれども、この世界というのは完全にこの1人の人によって全ての人が罪の奴隷となってしまっています。
この問題を解決するために神の国の御座に座っておられるこの子羊が、まことの幕屋、自分の肉体をこの幕屋としてこの世界に来られたということです。「ことばは人となって私たちの間に住まわれた」。これが1度目に来られたということです。最初に来られたので初臨、初めてこの世の中に臨まれたという意味で、キリストの初臨、目的はこの罪を取り除くために十字架で血を流すということです。でその時に罪が取り除かれるだけではなく、この世の王としてまた私たちの霊的な父親として支配していた悪魔の仕業もこの十字架の上で完全に取り除かれました。
それで十字架の上で全ての問題を完了したと言われたイエス様が、また諸々の天を通ってに帰って行かれました。死んだ後に3日目に死者の中から蘇って、そして雲に乗って天に帰っていかれました。今はこの御座において栄光と誉れの冠を受けておられます。このイエス様がこのようにして世の罪を取り除くという、この働きをキリストとして、大祭司として成し遂げてくださいましたから、御座におられる方はまことの大祭司であるキリストです。
それで3番目に神様が決定したことがあります。全ての神様の計画はこの御座で決定されます。この御座で神様が決めたことは何でしょうか。それは永遠に変わらない決定ですから、信じるものを救うということです。これは神様が決めたことですから。第1コリントの手紙の1章の21節です。つまりそれまでは、救い、救われるために人々は律法を守ること、そのことに励んでいました。しかし律法によって救われる人は1人もいません。この契約は欠けがあるために神様はこれは古いものだと、そのようにして新しい契約を与えてくださいました。それがキリストを信じるものは救われるということです。
ただキリストを信じる信仰のみによって救いが与えられる、これが神様が定めたことです。それは昔も今もこれからも変わりありません。旧約聖書のアブラハムも神様のことばを信じました。神様はその信仰を義と認められました。旧約だから律法、新約の時代だから福音、そういうことでありません。昔も今も全てキリストを信じるものが救われるということです。
このキリストを信じるためにはどうしたらいいのでしょうか。それは誰かがこのキリストを宣べ伝えなければなりません。聞いたことのない方をどうして信じることができるでしょうかと。聞かなければ誰1人として信じることはできませんから十字架につけられたキリスト、これを述べ伝える必要があります。第1コリント人への手紙の1章の23節。
誰が我々のために行くだろうか。神様はこのようにして誰かを現場に遣わして、1度もこの十字架につけられたキリスト、死者の中から蘇られたキリスト、そして天において栄光を受けておられるキリスト、このキリストの福音を伝えに行く人、そのような人たちを求めていますから、その人たちがこの神様の声を聞いて現場に行ったならば、今も恵みの選びによって残されているものがいる。
世の中の人たちはバアルだとかアシェラとか様々な偶像を礼拝していますけれども、バアルに膝をかがめていない7000人が今も残されている、これが現実です。それで伝道と宣教ということは、この神様が今残されているそのような人たちを探しに行くことです。探す手段方法は、ただ「イエス様はキリストです」という、この初代教会と同じ福音を宣べ伝えていくことです。この福音が宣べ伝えられた、その時に神様が永遠のいのちに定められている、そういう人たちがいますから、その人たちは皆キリストを信じる信仰に入るようになります。これが伝道と宣教です。
イエス様をキリストとして信じた神の子どもとなった、そのことは確かですけれども、しかしイエス様を信じた人間というものに色々な弱さがあります。心の病いがあったり、精神も病んでいたり、肉体も病んでいたり、生活も崩れていたりと、実際にクリスチャンなんですけれども、キリスト者なんですけれども、そのような状態の人もいます。
聖霊に与るものとなってこの罪と死の原理から、いのちの御霊の原理に移されて、そして神の子どもという身分が与えられました。しかし実際の生活において問題を起こす人がいます。例えばダビデを考えてみると、ダビデはサタンにそそのかされてある日人数を数えてしまうというそういう罪を犯しましたし、また姦淫の罪を犯し、殺人の罪も犯しました。今で言うならばクリスチャン、神の子ですけれども、実際にそういうことをしてしまったということです。
しかしこのキリストは「肉によればダビデの子孫として来られた」とあります。ダビデの子孫、アブラハムの子孫、ダビデの子孫、イエス・キリストの系図ですから、そのような罪人の子孫としてキリストが来られたということは、そのような問題を全部解決できるということです。
で肉体を持って私たちがこの今生活していると、サタンも生きて働いてますし、私たちの昔の体質がありますから罪を犯してしまうという弱さがあります。それで1度目にこのように来られ、来てくださってこの罪のあがないをただ1度で完全に成し遂げてくださいましたけれども、しかし再び来られると、今日のみことばに2度目のキリストが来られるということが約束されています。これがキリストの再臨です。
本当にキリストを信じているそういう人たちは、再びキリストが来られるということを信じていますし、また今日も待ち望んでいますし、またキリストが来られるということを、からだである教会は愛していますから、「主よ、来てください」と。それが黙示録の最後の言葉です。「主よ、来てください」と。今日であるならば今日来てください。それはキリストのからだである教会はキリストを愛してるので、早くキリストにお会いしたいということです。
1度目の時は成し遂げられたことは何でしょうか。それはたましいの救いでした。第1ペテロの1章の9節。人間の1番大事な、永遠にその人間が生きるところがたましいですから、そのたましいが死んでいたので人間は1度死ぬことと、死んだ後そのたましいがさばきを受けて永遠に滅びるということが決定しているんですけれども、しかしそこから逃れることができるために、キリストが来てくださって、そのキリストはイエス様だということを信じて心に受け入れた、その瞬間にこのたましいの救いがその人に成し遂げられます。から死からいのちに移っているのです。
もはやさばかれることはないとあります。さばきは全部過ぎ越しました。しかし先ほど言いましたように色々な生きていく中で弱さがあり、昔の体質がありますから、そのような問題を起こすことがあります。それで2度目に来られるということは、完全なからだに変えられるということです。
ピリピ人への手紙の3章21節、3章20節は「私たちの国籍は天です」で、いつまでも天です、という告白ではなくて、その天に行くことができる、この御座に行くことができる、そのようなからだに変えられます、ということです。キリストは万物をご自身に従わせることのできるその力によって、この私たちの卑しいからだをご自身のからだと似たもの、つまり栄光のからだに変えてくださる。だから教会は長子たちの教会ということで、この御座に教会があります。私たちは地上では色々な苦しみとか弱さとか問題を抱えますけれども、しかしキリストが再び来てくださったその時には、完全な救いが一人一人に与えられるという約束です。
皆さんは罪と死の原理というものの中で支配されていた悪魔の子どもでした。しかし今はキリストによって神の子どもに新しく生まれ変わりました。新しく神の子どもに生まれ変わったということは、この神の栄光に達しないというこの状態から救われて、神の栄光に達するその状態に移されたということです。それが救われたということです。それで栄光から栄光へとキリストと同じかたちに変えられていく、これが神様が最終的に私たちを救ってくださる手段ですから、地上にいる間は色々な意味で問題を抱えますけれども、私たちがするべきことは、そのような自分に対して裁いたり、あるいはそのような人に対して裁くということは、それは救われた人間のすることではありません。
裁きは全てキリストの裁きの座が準備されていますから、私たちは自分自身が裁かれないために逃れの町のような教会の中に入ってきました。ですから、同じように罪を持っていろんな問題を抱えてこの教会に入ってきたとしても、私たちにはその人を裁くそのような資格は誰にもないということです。それが自分にとっても安らぎであり、またこれから入ってくる人たちにとっても安らぎとなるということです。
散々世の中では裁かれ、最後にはキリストの御座の前で裁かれますから、教会の中にいる間は誰も裁かれないし、誰も誰からも裁かれない、自分も裁かないし自分も裁かれない、それがキリストのからだである教会の中に入ったということです。なぜならばキリストは罪を取り除いてくださったので、私たちはそのような素晴らしい神様の子どもという身分がもうすでに与えられているからです。
キリストがそのようにしてくださったことを本当に信じられるならば、御座についておられる方と子羊とに全ての栄光とほまれと賛美を捧げる、そのような皆さんお一人お一人となりますように主の御名で祝福をお祈りいたします。
父なる神様、生まれた時から罪を持って生まれ、神様の裁きで永遠に滅びるしかない運命の中に私たちは置かれていました。しかしキリストがその運命を完全に解放してくださり、全ての罪を取り除いてくださり、神様の驚くべき光の中に招いてくださったことを感謝をいたします。栄光から栄光へとキリストと同じかたちに私たちのからだも変えられていくことを信じます。キリストが再び来られるその日まで、イエス様がキリストです、全ての問題は完了しましたと、そのようにこのキリストの福音をあかしする伝道者の務めを果たすことができるように聖霊に満たしてください。イエス様の御名によってお祈りいたします。アーメン。