2024年11月17日 主日礼拝メッセージ『父のみこころを行うキリスト』(ヘブル10:5〜14) - YouTube
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"ですから、キリストは、この世界に来て、こう言われるのです。「あなたは、いけにえやささげ物を望まないで、わたしのために、からだを造ってくださいました。
あなたは全焼のいけにえと罪のためのいけにえとで満足されませんでした。
そこでわたしは言いました。『さあ、わたしは来ました。聖書のある巻に、わたしについてしるされているとおり、神よ、あなたのみこころを行うために。』」
すなわち、初めには、「あなたは、いけにえとささげ物、全焼のいけにえと罪のためのいけにえ(すなわち、律法に従ってささげられる、いろいろの物)を望まず、またそれらで満足されませんでした」と言い、
また、「さあ、わたしはあなたのみこころを行うために来ました」と言われたのです。後者が立てられるために、前者が廃止されるのです。
このみこころに従って、イエス・キリストのからだが、ただ一度だけささげられたことにより、私たちは聖なるものとされているのです。
また、すべて祭司は毎日立って礼拝の務めをなし、同じいけにえをくり返しささげますが、それらは決して罪を除き去ることができません。
しかし、キリストは、罪のために一つの永遠のいけにえをささげて後、神の右の座に着き、
それからは、その敵がご自分の足台となるのを待っておられるのです。
キリストは聖なるものとされる人々を、一つのささげ物によって、永遠に全うされたのです。"
ヘブル人への手紙 10章5~14節
イエス様を信じて心の中に迎えたという方の中に、自分はまだ救われている確信がないと、そのようにおっしゃる方がいらっしゃいます。イエス様を心の中に受け入れたということは、その人の心の中が変えられたということです。それが今日のみことばに記されていることです。
旧約時代、古い契約が与えられるその時には、外側から神様のことばが人間に働きかけましたけれども、しかし新しい契約は内側から神様のみことばが働くようになります。それでイエス様を信じたということは、心と思いが変えられたということです。
その信じた人の心の中に、例えば「あ、私は今までなかったその心が自分の中にある」というその心の変化ですね。「あ、今まで私は人が救われてほしいというそういう思いはなかった。友達とか家族とか職場の人とか、そういう人が救われてほしいという心は自分には一つもなかったけれども、自分の心の中に今は、あ、日本のほとんどの人たちは滅びるんだ。この人たちを神様が救ってほしい」というそのような願い祈りが自分の中にあるということは、その人は救われているということの証拠です。
自分が救われていなかったので、今まで自分の中にそのような心や思いはありませんでした。しかし今、自分の心にそういう思いがあるということ、それはキリストの心が自分の中にあるということです。
イエス様は「私と父とは一つです」とおっしゃいました。父の心とイエス様の心は同じだったということです。その同じだったその心には、人が救われてほしいというその心が父にも御子にもあったので、それを成し遂げたいと父は計画して、御子はそのことを実行しました。
それで「あなたの御心を行うために私にからだを造ってくださいました」と、そのように本文に記されています。御子は元々からだを持っていらっしゃいませんでした。そのからだというのは私たちのようなこの肉体ということです。神は霊ですから、神様にはこのような肉体はありません。しかし父の御心は肉体がなければ成し遂げられないために、御子は肉体を父なる神によって造られたということが本文の中に記されていました。
そしてこの世に来られて十字架の上でその人間の持っている問題を全て終わらせてくださいました。これが福音です。色々な問題が私たちの周りに起こりますけれども、しかしその全ての問題は十字架の上で完了したとイエス様がおっしゃいました。そしてその証拠が復活されたということです。
復活されたイエス様が今御座についておられて、栄光とほまれの冠を受けておられて、万物をその足の下に従わせておられます。このことが分かるようになると、現実でどのような問題が起こったとしても、万物はキリストの足の下に置かれているので、それは神様の御心の通りになっていくということに確信が与えられるようになります。
父の御心はキリストによって成し遂げられ、そのキリストによって成し遂げられた御心は、今度はキリストのからだである教会を通して御心は成し遂げられています。
皆さん一人一人がイエス様を信じて受け入れたということは教会になったということです。皆さんとのこの集まりがまた教会です。それで今地上において父なる神様、御子イエス様は教会を通して今働いておられます。つまり言い換えると、皆さん一人一人を通して今神様の働きがなされているということです。ですから非常に皆さん一人一人は貴重な、また重要な存在であるということです。
これが分かると皆さんは自分のものではなくキリストのものだと、キリストのものであるならばアブラハムの子孫です。アブラハムの子孫であるならば祝福の源ですから、皆さんを通して家庭あるいは職場、学校、そして世界が祝福を受けるそのような身分とされています。
ここまで悟ると本当に問題は問題ではなくて、祝福を受ける機会だとそのように信じられるようになります。神様はそのような福音を私たちにくださいました。しかし最初から十字架につけられるためにそのひとり子をこの世に送ってくださったとするならば、たとえそのイエス様が十字架で死なれたとしても、なぜ死なれたのかというそのことが分かりません。
それで神様は長い間、準備の期間としてイスラエル民族を選んで、そしてイスラエル民族に律法を与えて、そして律法を持っているその契約の民が神様と共におられるということを表しながら、それはイスラエルの民族だけを救うのではなく、次には異邦人を救うという、その神様の全ての人を救いたいという、その神様の救いの計画の全体の中で今歴史が動いていますから、全体が見えるようになると、初めがあり、また今があり、そして終わりは完成ですから、神様は計画したものを途中で失敗して終わらせられるそういう方ではありませんから、必ず神様が始められたものは成就していく、そのような信仰を皆さんに与えてくださるとそのように信じています。
それで神様が最初に与えてくださったものが律法というものです。この律法は影のようなものであるとあります。ヘブル人への手紙の10章の1節です。律法が影のようなものであるということは、どういうことでしょうか。それは完全な幕屋ではないということです。
エジプトの奴隷であった時に、その羊の血が流されたことによって完全にエジプトの奴隷から解放されて荒野に入ってきました。荒野で神様が与えてくださったのがこの律法でした。そして同時にモーセを通してこの幕屋を造るようにと、その幕屋の設計図をモーセに示しました。それで山で示された型通りにモーセは荒野で幕屋を造りました。
この幕屋というのは、目に見えない御座があります。この御座というのは人間の想像に属さないそういう世界です。天と地とその中にある全てのものは神様によって造られた被造物ですけれども、この御座は想像に属さない永遠の世界で父がおられて、その御子が右の座におられる、そのようなところが御座ですから、この地上に造られた幕屋というのは御座のひな形でした。
この幕屋を通して当時の人たちは礼拝をしていました。後にこの幕屋は神殿となります。とても立派な神殿が造られました。ソロモンの神殿、しかしそれも崩されて今度はゼルバベルの神殿、それもなくなってヘロデの神殿が造られたのがそのイエス様の時代です。そのヘロデの神殿も46年もかかって造られたので非常に立派でしたから、当時の人たちは神殿で礼拝を捧げるというのが習慣でした。
しかしその当時造られた神殿というのも、この御座にある幕屋のひな形に過ぎませんから、そのところで捧げられる礼拝というのも完全な礼拝ではありませんでした。それでイエス様はその神殿を壊してみなさいと、そのようにおっしゃいました。
それから地上に立てられる大祭司は完全な大祭司ではありませんでした。ヘブル人への手紙の7章の28節。地上に立てられる大祭司というのは人間ですから、人間というのは弱さがあるということです。弱さがあるということは罪を犯す可能性があるということです。
それでこの大祭司として立てられたその人物も、自分の罪のために血を流し、また民の罪のためにも血を携えて至聖所に入っていかなければなりません。そして弱さだけではなく、人間ですから死ななければなりません。それで1年ごとに大祭司は選ばれて交代しなければなりません。そのような意味で完全な大祭司は立てることができませんでした。
それからもう一つ、地上で捧げられる生贄は完全な生贄ではありませんでした。ヘブル人への手紙の10章の4節このところに、雄牛と山羊の血は罪を除くことができませんとあります。どんなに動物の血を流して生贄として捧げたとしても、完全に罪を取り除くことはできないということです。
それは自分の罪を意識させるということです。「あ、私は罪を犯したんだ」というそういう意識を生贄を捧げるたびに、自分で思い起こすということです。自分の良心、「あ、私は罪が許されたんだ」というそのような良心を動物の血では清めることができないということです。
にもかかわらず神様がこのようにしてまず最初に契約のために律法を与えられたというのには目的があります。どのような目的でしょうか。この罪を意識させるということが目的なんですけども、律法がなければ罪の意識はありません。
分かりやすいことは、法律を破れば自分の中に罪の意識が生まれます。いくらスピードをだしても違反にならないというアウトバーンというのがドイツにあって、そこは時速何kmで走っても捕まることがありません。ところがこの近所は30kmをオーバーしたら、もうそれで違反ということで捕まってしまう場所もあります。その30というその数字を見たら自分の中に意識が生まれます。それを超えてはならないというそういう意識です。超えた瞬間に「あ、私は違反した」というその意識が生まれます。律法が与えられたというのはそういう意味です。
神様が律法を与えて、律法を破った人は血を流さなければならない、その血を大祭司のところに持っていって、大祭司が幕屋で至聖所でその血を携えながら神様の前に取りなしをしてくれる、それが旧約時代の礼拝の形でした。
今このような形は全て終わりました。今誰一人として動物を携えて教会に来る人はいません。律法は終わったということです。この役目は全て果たされました。それは律法というのは影ですから、その本体が来られたということです。その方がキリストです。つまり律法はキリストが来られるまでの養育係であるということです。キリストが来られたならば、もう養育係は不要ということです。
キリストはどのような方でしょうか。ヨハネの福音書の1章の14節、キリストは完全な幕屋です。ヨハネの福音書の1章の14節、「ことばは人となってこの世に来られた」。神のことばが見えませんから、「光をあれ」とこの神のことばが仰せられると光ができた、そのように何もないところから万物を造られる、そのことばである方が全てのものを造られた、その被造物の世界に来られたということです。
人となってということは、肉体を持ってこられたということです。それが先ほどの本文にありましたように「あなたは私のためにからだを造ってくださいました」、ヘブル人への手紙の10章の5節。神は霊ですから、体や肉体というものがありません。しかし人間の問題を解決するためには血が流されなければなりません。それで肉体が必要となったということです。
それはことばが人間となって来てくださって、キリストの働きをするということです。キリストはまことの大祭司の働きをなさる方です。ヘブル人への手紙の9章の12節、このところでキリストはただ一度ご自分のからだから血を流して、完全で永遠のあがないを成し遂げたとあります。動物の血では成し遂げることができない、その人間の罪の問題を、罪のないからだを持って血を流して完全なあがないが完了したということです。
それからキリストは王として、ヘブル人への手紙の2章の14節、その死によって悪魔という死の力を滅ぼされました。悪魔はこの世の王ですから、この世の王に支配されている全ての人間から、解放するために、人間を悪魔の支配から解放するために、その十字架の上で死んでくださったことによって私たちを解放してくださいました。
それからキリストはもう一つ預言者の働きです。ヘブル人への手紙の10章の20節、その肉体という垂れ幕を十字架の上で引き裂いてくださったことによって、新しい生ける道を開いてくださいました。どこに行く道でしょうか。神様のことば、契約の箱の前に出るその道が開かれました。つまり神様に出会ったということは神様のことばが分かったということです。もちろん全てが一瞬で分かるということはありません。しかし少なくても何らかの神様のことばは、アーメンと、あ本当にそうだ、これは真理だというように、その心の中にみことばが刻印されるようになります。それが救われたということです。神様のことばがその人の中に入りますから、神様はこのキリストを完全な生贄として受け入れられました。ヘブル人への手紙の10章の10節このところに、罪のないキリストのからだ、そしてこのからだがただ一度だけ。たくさんの動物が血を流したとしても神様はこれによっては満足されなかったとあります。しかしこのことによって神様は満足されたと。
律法には欠けがあるために新しい契約を神様はくださり、新しい契約の中でご自分の御子が十字架の上でただ一度血を流してくださった。流されたその血を父なる神様は満足されたということです。それが父の御心でした。父が願っておられることは、御子がこのキリストの働きを成し遂げてくださったことによって、人間の救いの道が開かれるということです。
それでイエス様は十字架の上で「全て成し遂げた」そのようにおっしゃいました。ヨハネの福音書19章30。この3つの働き、大祭司として血を流すことによって、罪と呪いと災い、それが過ぎ去っていきました。過ぎ越していきました。もはやキリストを信じた人は罪に定められることはありません。
完全な大祭司の働きによって罪の問題が終わりました。王の働きも成し遂げられましたから、もはやサタンとか、あるいは悪霊そのようなものに支配されるということはありません。まことの王であるキリストがその人の中に入ってくださったということが確かであれば、今まで自分の中に入って出たり入ったりしていた悪霊、汚れた霊というものは同居することができませんから、追い出されるしかありません。闇は光に打ち勝てなかった。このまことの王が信じたその人の中に入ってくださっているので、サタンと悪霊の問題も完了した。そして死んだならば、私たちは悪魔とそのしもべと共に永遠の闇の中に行かなければならない、その運命でした。人は一度死ぬことと死んだ後裁きを受けることが定まっている。
その裁きを、この預言者であるキリストがハデスの門を閉じてくださって、神の国に行くことができる、天使に行くことができる、その道を開いてくださいましたから、神のことばが皆さんの中にあるということは、もうすでに神の国はあなた方の中にあるのです。死んだら行くということももちろんあってますけれども、もうすでに神の国は信じている皆さんの中に来ていますから、今地上において天国のその素晴らしさを少しずつですけれども、一気には全ては分かりません。神の国は飲み食いの楽しさというそういう楽しさではなくて、義と平和と聖霊による喜びなのです。今まで味わったことないそのようなものが自分の中にもうすでに与えられているということが、神の国に行っているということの1つの証拠となります。
ですから全ての問題はキリストが成就してくださり、そしてそのあかしが3日目に復活したことであり、復活されたイエス様は御前について今栄光とほまれの冠を受けておられます。それゆえ完全な贖いが成し遂げられました。ヘブル人への手紙10章14節このところに書かれているみことばを読んでみたいと思います。キリストは聖なるものとされる人々を1つの捧げ物によって永遠に全うされたのです。ただ1度十字架でご自分のからだを生贄として捧げたことによって、永遠に贖いを完成してくださった。
そのことが分かると皆さんはまずキリストの血によって聖なるものとされているということです。清くされているということです。それからキリストイエス様をキリストとして信じることによって、信じたことによって義なるものとされているということです。義なるものとされているということは、神様の側においては聖書のみことばで言うと「彼らの罪と不法とを私は思い出すことはしない」。完全に神様は私たちの過去現在未来全ての罪を思い出すことはないと。それが義とされたということです。神様がその信仰を義と認めてくださったということです。どれほど感謝なことでしょうか。
そしてもう1つは、キリストの律法が皆さんの心と思いの中に書き記されているということです。最初の律法、モーセの律法というのは、例えば人を憎んで殺したいと、そういう風に例え思ったとしても、この律法を違反したということはありません。実際に殺すまではこの律法は破られていません。しかしキリストの律法は心の中で人を憎んだりということがあったならば、もうその人を殺していることだと、そのようにイエス様はおっしゃいました。このモーセを通して与えられた律法よりもキリストの律法のレベル基準というのは本当に高いものです。
それでそのキリストの律法が信じた皆さんの中にある時に私たちの死んだような良心というものは再び生き返らせられますので、本当に私は心の中でそのような思いを抱いてしまうということが分かるようになります。つまりクリスチャンになった方がなる以前よりも良心は敏感であるということです。以前は死んだような状態ですから、罪に罪を重ねても何の良心の呵責もない人もいます。ところがキリストの律法が心の中に与えられたということは、そのように罪に対して今まで以上のレベルに置かれていますけれども、しかしそれは同時にキリストの血がいつも瞬間瞬間私の中に流れているので、御子イエスの血は全ての罪から私を清めてくださるという、そのキリストの血の中にいつも自分は置かれている。だからさばかれることがないわけです。
キリストの血が自分の中に流れていなければ、もう全て私たちは律法を破って、キリストの律法ももちろん破って違反しますけれども、それぐらい私たちは弱さと肉体の死を持っていますから、神様の側からすればどんなに私たちが弱いものであり、また罪を犯すかもしれない、そういうものだということはご存知です。それでキリストが完全な贖いを十字架の上で成し遂げてくださったために、父のみこころ、これを私たちを通して成し遂げられることができるということです。
ヨハネの福音書5章17節「私の父は今に至るまで働いています。ですから私も働いているのです」とイエス様がおっしゃいました。父が人間の救いのために働いているので、御子であるイエス様も人間の救いのために働かれました。それがヨハネの福音書14章10節「私のうちにおられる父がご自分のわざを行っておられるのです」。イエス様がご自分で何かしたということではなく、「父が私を通してご自分の救いの働きをしておられるのです」と、そのようにイエス様もおっしゃいました。
とすれば私たちも自分で何かするというようなことではないということです。創世記12章1節から3節「あなた方がキリストのものであるならば、アブラハムの子孫です」。アブラハムの子孫であるということは祝福の源です。祝福の源ということは、あなたによって全ての人が祝福を受けるようになる、これがそのアブラハムの子孫の身分です。
本当に自分がアブラハムの子孫、キリストのものであるということは、神様がそのみことばの成就をなさるということです。私たちにとって必要なことは、私が何者なのか。私はキリストのもの、その十字架の血によって完全に贖われた。贖われたということはキリストの血の代価を支払ってキリストのものとして買い取られたということですから皆さん信じている人たちはキリストのものです。とすればアブラハムの子孫、祝福の源です。
それで自分自身がどのような存在であるかということを知ると、本当に私が何かするのではなく、私の中に、皆さんの中におられる御霊が働いてくださって、そして神様のわざがなされるようになります。人を生かすのは私たち肉ではありません。人を生かすことができるのは御霊の働きです。肉は無益です。それで「私があなた方に話したことばは霊であり、いのちなのです」。
いのちのことば、福音を私たちがしっかり握って、そして必要な人と出会った時に、「あ、神様が私を通してこの方にこの良い知らせを伝えたいと願っているんだ」ということが分かったその人は「あ、私はこの人に福音を伝えてあげたい。私は福音を恥とは思いません」と。当然その人は今までは恥ずかしくて伝えることができなかったような、その福音が恥とは思わない。この福音ほど素晴らしいものはないということを味わっているので、何よりもこの人に与えてあげたいのは「イエス様がキリストです」というこの良い知らせだということです。
父のみこころはキリストによって成し遂げられました。そしてキリストは私たちの中に完全な永遠な贖いを成し遂げてくださいました。その方が私たちの中に住んでおられて、聖霊によってご自分のわざを成し遂げてくださいますから、私たちはそのことを本当にただ信じるということです。私たちは行うということで救われたものではありません。ただ恵みのゆえに信仰によってだけ救われたものです。ですから行いによって何かしようとするならば、恵みが恵みではなくなってしまいますから、どこまでも恵みによって私たちは救われたのですから、恵みによって生きていくということ、それが信仰の原理です。
今日もその信仰の原理に立たれる皆さんお1人お1人となりますように主の御名で祝福をお祈りいたします。父なる神様、今日も講壇を通して主が神様のみことばを私たち1人1人に語ってくださったことを信じて感謝をいたします。今週現場で成就する契約のみことばを、講壇を通して語られたみことばからも握ることができるように、恵みの故に信仰を与えてください。イエス様の御名によってお祈りいたします。アーメン。