新宿キリスト教会ブログ

今まで一度も福音を聞いたことのない方へ

【書き起こし】2024年12月1日 主日礼拝メッセージ『キリストを信じる信仰によって生きる』(ヘブル10:32-39)

2024年12月1日 主日礼拝メッセージ『キリストを信じる信仰によって生きる』(ヘブル10:32-39) - YouTube

https://www.youtube.com/watch?v=PkW7spiTSdU

 

"あなたがたは、光に照らされて後、苦難に会いながら激しい戦いに耐えた初めのころを、思い起こしなさい。

人々の目の前で、そしりと苦しみとを受けた者もあれば、このようなめにあった人々の仲間になった者もありました。

あなたがたは、捕らえられている人々を思いやり、また、もっとすぐれた、いつまでも残る財産を持っていることを知っていたので、自分の財産が奪われても、喜んで忍びました。

ですから、あなたがたの確信を投げ捨ててはなりません。それは大きな報いをもたらすものなのです。

あなたがたが神のみこころを行って、約束のものを手に入れるために必要なのは忍耐です。

「もうしばらくすれば、来るべき方が来られる。おそくなることはない。

わたしの義人は信仰によって生きる。もし、恐れ退くなら、わたしのこころは彼を喜ばない。」

私たちは、恐れ退いて滅びる者ではなく、信じていのちを保つ者です。"

ヘブル人への手紙 10章32~39節

 

今、聖書のみことばを読んでいただいた32節に、「あなた方は光を照らされて後」というように書かれていました。神様から離れた人間の心の状態というのは闇、暗闇です。ですから、そこには光というものがありません。光が照らされなければ信仰を持つことはできませんから、必ず光が照らされなければなりません。

 

その闇の心に2つの光が照らされます。1つはまことの光です。まことの光に照らされたならば、それは福音に入ることができます。しかしもう1つ偽の光があります。その偽の光に心が照らされたならば、宗教に入ってきます。その背後にあるのは悪魔であり、また悪霊との交わることです。

 

元々このヘブル人への手紙の記者は、ヘブル人に当てられた手紙ですから、ユダヤ教というそのような宗教の中にいた人たちです。「あなたがたの父である悪魔」とイエス様が呼んだそのようなアブラハムの子孫である人々です。その人たちに光が照らされたという時に、本物のまことの光が照らされたのであれば、キリストを信じたということです。

 

キリストを信じた後に様々な問題や苦しみに直面したために、今までのその宗教に戻ってしまおう、ユダヤ教に戻ろうと、そのような人たちが現れたために、この記者はユダヤ教にまさるキリスト、そのように宗教とキリスト、福音は全く違うということをこの手紙の中で書き続けました。

 

その結論として、義人は信仰によって生きるということです。どれほどの苦しみに出会ったのかということが、今日の本文の中に記されていましたけれども、初めの頃は苦難に会いながらも激しい戦いの中で耐え忍んでいたようです。

 

人々のそしりとか苦しみを受けて牢に入れられた人たちもいますし、また財産を奪われるというような目にあった人たちも起こって、本当にその苦しみというのは想像以上に激しいものでした。しかし、最初の頃は信仰によって戦っていたその聖徒たちが、だんだんと確信を投げ捨ててしまって望みを失ってしまいました。それで信仰のかすかな最後の灯が消えようとしているような状態の人もいましたから、その人たちに対してこのメッセージが届いたならば、本当に慰めと励ましとなります。

 

本当に私たちのこの与えられた信仰というものには大きな報いが伴うもの、それがこれからヘブル人への手紙の11章、信仰による人々のリストの中に入っていくことです。信仰がなければ神様に喜ばれることがありません。神を求めるもの、そして神様への信仰に対してついていく者たちには大きな報いが伴うということを信じて確信することができるようになります。

 

それは昔の人たちだけではなく、今の私たちにとっても全く同じです。敵である悪魔が今も働いていますから、伝道する弟子と教会に対しては激しい試練、激しい信仰の戦いが私たちには必要となります。途中まで戦って諦めてしまうというようなことになってしまうと、その信仰が後退してしまいます。神様はそのように信仰が退くそのような人たちを喜ばないとあります。あくまでも私たちはこと信仰によって前進していく、そのようなものとして呼ばれたものです。

 

車を運転している時には必ずバックギアというものがなければ運転できません。しかしこと信仰に関してはバックギア、後退するというギアは与えられていないということです。それでパウロは「私は一心に神の栄冠を受けるために前進しています」とそのように告白しました。

 

私たちもパウロと同じように今、色々な信仰が動揺するようなこと、揺さぶられるようなそのような問題に私も皆さんも直面していますけれども、しかし私たちは信仰が後ろに戻ってしまうような、そのような信仰者ではなく、信仰の創始者であり完成者であるイエス様からただ目を離さなければ、それで信仰が完成していきます。

 

ですから、まず第1番目に私たちに必要なものは、完全な信仰ということです。完全な信仰というのは何でしょうか。それはイエス様はキリストであると、マタイの福音書16章16節、このことを信じる信仰は完全な信仰です。

 

「シモン・ペテロ、あなたは幸いです。私はこの岩の上に私の教会を建てます。」本当にイエス様はキリストという、この信仰に立ったならば岩のようにですから、絶対にゆさぶられることはないということです。なぜでしょうか。

 

エス様はキリストとして、ヘブル人への手紙2章14節と15節、悪魔という死の力を持つものをその死によって滅ぼされたまことの王であるからです。そしてイエス様はキリストとして、ヘブル人への手紙9章12節、十字架の上でただ1度だけご自分のからだから血を流すことによって、完全な贖いを成し遂げてくださいました偉大な大祭司です。

 

そしてイエス様はキリストとして、ヘブル人への手紙10章20節、人間の問題は神様から離れたというそのことから始まりました。神様から離れたということは、具体的には神様のことばから離れたということです。その問題を解決するためには神様のことばの中に入ることです。それが至聖所に入る道を開かれたということです。

 

ご自分の肉体という垂れ幕を十字架の上で引き裂いてくださったことによって、誰でも至聖所に入ることができる道が開かれました。至聖所に入ったということは、そこにあるのは契約の箱です。契約の箱の中にあるのが神のことばです。ですから必ず神のことばを見つけることができるようになります。イエス様は偉大な預言者の働きを成し遂げられました。

 

十字架の上でこのようにしてイエス様がキリストの働きを成し遂げられた後に、3日目に死者の中から復活してそして元からおられた父なる神の右の座につかれました。ヘブル人への手紙2章9節、今栄光とほまれの冠を受けておられます。

 

御座でキリストは何をしておられるのでしょうか。ヘブル人への手紙1章14節、信じて神の子どもとされた皆さん1人1人に御使いを仕えるように、遣わしてくださっています。そしてヘブル人への手紙4章16節、私たちが今必要としているものが必ずあります。私たちは何かを必要としていますから、その癒しであるとか、あるいは経済であるとか、あるいは罪の赦しであるとか、色々なものを私たちは必要としていますから、「大胆に恵みの御座に出ようではありませんか。」

 

信仰を持って、全き信仰を持って神様の恵みの御座に近づいていったならば、そこでまことの大祭司であるキリストがその人に今必要としているものを必ず与えてくださるという約束です。そしてヘブル人への手紙4章12節、恵みの御座に出ていったならば、まことの預言者であるキリストが「もし今日御声を聞くならば」と神様のことばを与えてくださいます。神のことばは生きていて力があり、これから皆さんに対してどのような約束を与えてくださるのかということが、このまことの預言者であるキリストの働きです。

 

それで本当に御座の前に出たならば、結論として完全な信仰を持っている人であるならば、ただおことばをください。マタイの福音書8章8節、ほとんどの人々は闇の中にいますから、その光として奇跡を見せてください、その奇跡を見たら私は信じます。そこで偽の光が与えられて、その偽の光によって奇跡を見てしまったら、その宗教に入ってしまいます。

 

それで日本で多くの新興宗教は光という言葉が使われています。サタンでさえ光の御使いに変装してやってくるからです。多くの人たちは「癒しを与えてください」と、もしこの医者も見放したようなこの病気をあなたが癒してくださったならば私は信じます。もしそこで偽の光で癒されてしまったならば、その宗教にのめり込むようになってしまいます。当然そうなるしかありません。

 

もしかすると神様はそのような祈り願いに答えないかもしれません。奇跡も顕さない、あるいは癒しもなさらない。するとその人はどうなってしまうのでしょうか。「イエス様を信じたかったけれども、イエス様は奇跡を行わない、イエス様は癒してくださらない。だったら他のところに行こう」と、多くの群衆はそのようにして目に見えるもの、実際に自分のからだで体験できるようなそのようなものについていってしまうようになります。

 

しかし完全な信仰というのはそうではありません。ただ神のことばだけで十分です、ということです。百人隊長はそのような信仰を持ってイエス様のもとにやってきました。百人隊長がそのようにイエス様に言われた時に、「今までイスラエルの中でもこのような信仰を見たことはありません」と。自分が一緒に行ってあげようと、そのようにイエス様がおっしゃっているのに、「いえ、一緒に来ていただく必要はありません。ただおことばをください。そうすれば私の下僕は癒されます」と言いました。

 

それでイエス様は「あなたの信仰の通りになるように」、つまり百人隊長は100%イエス様のことばを信じていましたから、その信仰がその通りに現実に起こったということです。遠く離れているその病んでいる僕が、その同じ時間、その信じた通りになるようにとイエス様がおっしゃった、その時間に癒された。つまり神のことばは時間と空間を超えて働くということです。

 

私たちがここで礼拝を捧げているわけですけれども、私たちはここにいても私たちの祈りとか願いは離れている人にも届いていくということです。それで「ただおことばをください。みことばだけで十分です」というのが完全な信仰です。

 

2番目に、キリストを信じる信仰によって生きるということは、どういう信仰でしょうか。それは忍耐する信仰です。ヘブル人への手紙10章36節、「あなた方が神の約束のものを手に入れるために必要なものは忍耐です」とあります。なぜでしょうか。それは神様によって定まった時というのがあるからです。

 

伝道者の書の3章1節、「天の下では何事にも定まった時期があり、全ての営みには時がある。生きるのにも時があり、死ぬのにも時がある」有名なみことばです。全てのものはこの神様の時刻表の下に置かれているということです。それが聖定ということです。

 

神様が全てのものを前もって定めておられます。その神様が定められたそのことが起こる時があるということです。それは人間とは全く関係ありません。人間が相談して決めるようなそういう時ではなくて、一方的に神様が世界の基が置かれる前から定められたことがあり、そしてすべてが終わる。そのようにして神様が定めておられるその時があります。

 

そして人間の歴史、私たちは日本史、日本の歴史を見、世界の歴史、世界史を見ますけれども、人間の歴史であるように日本史も世界史も人間を中心に見ればそのように見えますけれども、実はその人間の背後で、全ての歴史は神様が決めておられるということです。ただ神様から離れた人間にとっては、神様が定めておられることと神様が定めておられるその時が分かりませんから、何か自分たちがこうする、自分たちがこうしないというように生きていますけれども、実は全ては神様が定められておられます。

 

それでイエス様が「父よ、時が来ました」と言われました。ヨハネ福音書の17章1節です。神のみ子であるイエス様でさえも神様の時刻表の中で「まだ時が来ていません」とか「時が来ました」とそのように告白しておられます。

 

それはガラテヤ人への手紙4章4節を見ると「神様が定められた時が来たので」というみことばです。神様の定められた時が来たので何が起こったのでしょうか。それは神様はご自分のみ子をこの世に遣わして、女から生まれたもの、つまりマリアから生まれたもの、罪の下に定められたものとして遣わされた。つまりキリストの誕生、それも神様の定められたその時に起こったことです。

 

それでヨハネ福音書の19章30節、「全ての問題は終わった」。色々な問題はありますけれども、しかし神のみ子が来てキリストの働きを十字架の上で完全に成し遂げてくださったので「終わった」とそのように宣言されました。そのことを信じて待ち望みなさいということです。

 

詩編42編5節と11節、繰り返し「神を待ち望め」と書かれています。神を待ち望めない人はどうなるのでしょうか。その人の心とたましいを見るならばうなだれている状態です。たましいがうなだれているということは失望落胆してしまっているということです。そしてその心と考えを見るならば思い乱れているということです。心が定まらない、平安が全くない。神様を待ち望めないので、もう自分でああでもないこうでもないと思い煩っている状態です。

 

そしてその人の行動というのはどういう風になるのでしょうか。嘆いて歩くということです。毎日嘆きながら歩いています。「ああ神様どうしてこうしたんですか、神様どうしてこうならないんですか」とそのようにしていつもいつも口から出る言葉が嘆きです。

 

そのような人に向かって「神を待ち望め」とそのように言われました。神を待ち望むということは、必ず神様のその時刻表が来るので忍耐しなさいということです。神様の約束というものには必ず神様の時が必要なので、性急な人がいますけれども、もうADHDであるかのように、注意欠陥多動性のように本当に落ち着かない、すぐに飛びついてしまったり、すぐに離れてしまったりとそのような人がいますけれども、例えそういうような障害が自分の中にあったとしても、神様を待ち望む信仰というものはそのような障害を超えることができますから、

 

神のことばは生きていて力があり、そしてたましいと霊、関節と骨髄、そして心と考えにまで入ることができますから、その力を信じて「私にはそういう弱さがあるけれども、じっと神様の時が来るのを待ち望もう」とそのようにしたならば、必ず「神の約束はことごとくキリストにおいてしかりとなりました」。しかりとなったということは「アーメン」、その通りになったということです。

 

神様が1度皆さんに何らかのみことばを与えてくださったならば、それは必ずしかり、成就するということです。それで「アーメン」と言って待ち望みさえすれば、約束のものを必ず皆さんは手に入れることができるということです。それが待ち望む、忍耐する信仰ということです。

 

そして3番目にキリストを信じる信仰によって生きるということは、どういう信仰でしょうか。前進する信仰です。ヘブル人への手紙10章38節、このところに「もし恐れ退くなら、私の心はそのような信仰者を喜ばない」とあります。神様は私たちが信仰によって前進することを望んでおられます。

 

どのような信仰による前進なのでしょうか。まず私たちは契約の旅程を歩む、そのような旅人です。使徒の働き1章8節、エルサレムからユダヤ、サマリヤ、そして地の果てにまで私は今その契約の旅程を歩んでいます。それで契約の旅程を歩んでいるということは、知らなければならないこと、それは神様のご計画の全体が何であるかということです。使徒の働き20章27節、私たちが今毎日経験するのはその神様のご計画の全体のほんの一部、ほんの瞬間的なことです。70年80年、私たちの地上の生涯、契約の旅程を歩んだとしても、それは一瞬のことです。神様の計画は非常に長くて、私たちのその理解を超えていますから、なかなか理解することができません。分かりやすく2つの計画がありますけれども、1つはアブラハムを選んでイスラエルの民としてそして、まず神様がそのイスラエルの民を通してご自身の栄光を顕して、そしてこの契約の民が律法について生きていくようにその最初の契約が与えられたということです。

 

その契約はやがてキリストの誕生によってすべて古いものは過ぎ去って、新しい契約が与えられました。キリストの血と体が引き裂かれたことによって、このシナイ山の契約は終わってカルバリ山の契約が与えられました。それは今までの救いのターゲット対象がイスラエル人だったのではなくて、それからは異邦人に救いの対象が向けられました。そして教会の時代が始まりました。それが五旬節の日になって、聖霊が与えられて聖霊に満たされたそのエルサレムから新しい時代が始まりました。今はその新しい時代の途中に私たちはいるものです。

 

そしてこのイスラエルと異邦人、この2つが1つになった時に神様の計画が完成します。それが聖書全体、神様のご計画の全体ということです。この神様のご計画に従って、皆さんは召されたものであり、賜物が与えられたものです。それで、召命と使命が与えられます。

 

ローマ人への手紙11章29節、「神様の賜物と召命とは変わることがありません」。ここで言うところの賜物とは何でしょうか。それはエペソ人への手紙2章8節です。「恵みのゆえに信仰によって救われました。それは自分自身から出たものではなく、神からの賜物です」。救いは神様から頂いたプレゼントですから、この賜物が与えられた人には召命が与えられます。

 

創世記12章1節から3節、「あなたはあなたの生まれ故郷、父の家を離れて、私が示す地に行きなさい。そうすれば私はあなたを祝福し」と。あなたはあなたによって全ての民が祝福を受ける。そのようなアブラハムの子孫、あなた方がキリストのものであるならば、アブラハムの子孫であり、そして祝福の源ということです。世界中の人々はこのキリストを信じたその人を通して祝福を受けるようになるということです。それがミッションになりますから、

 

この御国の福音は全世界に宣べ伝えられ、そして全ての民に証しされてから再びキリストが来られる。そのようにして神様のご計画の全体がこれから進んでいきますから、ただ福音ということです。

 

ピリピ人への手紙1章12節、このところでパウロは、「私の身に起こったことが、例え何であったとしても、かえって福音を前進させるようなことになるならば、自分は何でもいい」と言っています。何でもいいと。ここで言ったことは、投獄されたということです。福音を伝えることによってパウロは捕らえられて牢に入れられてしまいました。そのことによってかえって福音が前進していったとあります。それでパウロは自分が牢に入れられているということが苦しいことであったとしても、それを喜びとしています。

 

ですから、あなた方も喜んでください。全てのことが、どんなことであったとしても、ただ福音が前進するその機会となれば、私の身にあるいは皆さんの身にどんなことが起こっても、それは感謝しますということです。

 

今も敵である悪魔が皆さんの信仰を妨げようとして、色々な迫害とかあるいは苦しみを与えています。これは事実です。これは絶対に避けられないことです。例えそうであったとしても、私たちは自分たちの身にどのようなことが起こったとしても、そのことが福音が一歩でも前進する、そのようなことであるならば、私はそれを喜びます、というのがこの前進する信仰ということです。

 

神様は恐れ退くものを喜ばないと言われました。私たちは恐れ退いて、そして滅びるものではなくて、前進して神の栄冠を受けるものとなる。それが神様の願いです。それで今週も私たちはただキリストを信じる信仰によって前進し勝利する皆さん一人一人となりますように、主の御名で祝福をお祈りいたします。

 

父なる神様、恵みを感謝いたします。今日語られたみことばが一人一人の心に釘のように刻印され、キリストに根を下ろしていきますように。イエス様の御名によってお祈りいたします。アーメン。