新宿キリスト教会ブログ

今まで一度も福音を聞いたことのない方へ

【書き起こし】2024年1月7日 主日礼拝メッセージ『今まで通ったことのない道』(ヨシ3:1-13)

2024年1月7日 主日礼拝メッセージ『今まで通ったことのない道』(ヨシ3:1-13) 
https://www.youtube.com/watch?v=6K-VsWeKJ9k

"ヨシュアは翌朝早く、イスラエル人全部といっしょに、シティムを出発してヨルダン川の川岸まで行き、それを渡る前に、そこに泊まった。
三日たってから、つかさたちは宿営の中を巡り、
民に命じて言った。「あなたがたは、あなたがたの神、主の契約の箱を見、レビ人の祭司たちが、それをかついでいるのを見たなら、あなたがたのいる所を発って、そのうしろを進まなければならない。
あなたがたと箱との間には、約二千キュビトの距離をおかなければならない。それに近づいてはならない。それは、あなたがたの行くべき道を知るためである。あなたがたは、今までこの道を通ったことがないからだ。」
ヨシュアは民に言った。「あなたがたの身をきよめなさい。あす、主が、あなたがたのうちで不思議を行われるから。」
ヨシュアは祭司たちに命じて言った。「契約の箱をかつぎ、民の先頭に立って渡りなさい。」そこで、彼らは契約の箱をかつぎ、民の先頭に立って行った。
主はヨシュアに仰せられた。「きょうから、わたしはイスラエル全体の見ている前で、あなたを大いなる者としよう。それは、わたしがモーセとともにいたように、あなたとともにいることを、彼らが知るためである。
あなたは契約の箱をかつぐ祭司たちに命じてこう言え。『ヨルダン川の水ぎわに来たとき、あなたがたはヨルダン川の中に立たなければならない。』」
ヨシュアイスラエル人に言った。「ここに近づき、あなたがたの神、主のことばを聞きなさい。」
ヨシュアは言った。「生ける神があなたがたのうちにおられ、あなたがたの前から、カナン人、ヘテ人、ヒビ人、ペリジ人、ギルガシ人、エモリ人、エブス人を、必ず追い払われることを、次のことで知らなければならない。
見よ。全地の主の契約の箱が、あなたがたの先頭に立って、ヨルダン川を渡ろうとしている。
今、部族ごとにひとりずつ、イスラエルの部族の中から十二人を選び出しなさい。
全地の主である主の箱をかつぐ祭司たちの足の裏が、ヨルダン川の水の中にとどまると、ヨルダン川の水は、上から流れ下って来る水がせきとめられ、せきをなして立つようになる。」"


2024年、新しい年を迎えて最初の礼拝を共にお捧げすることができました。本当に主に感謝をし、全ての栄光を今日も主に捧げたいと思います。

先週のみことばにありましたように、神様は年の初めから年の終わりまで皆さん一人一人に目を止めておられます。ということは、この今の時間も主の目が皆さん一人一人の上に止められているということです。

その方が人間に対して最初に尋ねたことは何でしょうか。それは「あなたはどこにいるのか」ということでした。アダムに対して、エバに対して、「あなたはどこにいるのか」。つまり、今私たちがどこにいるのかということ、それは非常に重要なことです。今自分がいる現在地が分からないと、どこに向かっていったとしてもその向かってる方向というのもまた違ってしまうからです。

それで今私がいる、皆さんがいる現在地はここですということが分かると、その次に必要なことは行くべき道、どこに向かっていったらいいかというその方向です。その方向を神様はみことばを持って導いてくださる方です。

全ての人間は創世記の1章の2節にありますけれども、闇、混沌、虚しさの中でこのように生まれてきます。人間の心というものがあったとしても、その心は闇ですから光がない状態です。ですから生まれつきの人間というのは霊的にそのたましいが死んでいる状態です。それでどこへ行ったらいいのか分からないで地上をさすらい人として今さすらって歩いています。

そのような中で神様がある日私たちに福音の光を心に照らしてくださいました。神様の方からそのような恵みがなければ、人間の方から神様を探すと行くところは全てが宗教の道です。それで福音の光が心の中に照らされた時に、イエス様がキリストだということが分かるようになります。信仰が与えられるということです。

恵みのゆえに信仰によって救われたのです。救われた結果、神の子どもとなった時にいのちのみことばがその人の中に与えられますから、少しずつですけれども自分の足元は照らされて見えるようになります。「あなたのみことばは私の足のともしび、私の道の光です」。足元に神様のみことばの光が照らされますから、私たちは一歩一歩神が私と共におられるというそのインマヌエルの道を歩んでくるようになります。

それがこれまで私たちがキリスト者だというのが確かであるならば、今までそれが私たちが通ってきた道です。それでまず第1番目に私たちの元来た道というものがあります。今まで私たちが過去を振り返った時に、「ああ、こういう道を私たちは彷徨っていた」というそういう道です。それは自分勝手な道です。

イザヤ書の53章の6節です。「私たちは迷子になった羊のように、それぞれが自分勝手な道を向かって歩んでいました」。それはこの目で見て、目の欲、あるいは肉の欲、持ち物の誇りとありますように、自分の肉と欲のままに生きてきました。これが欲しい、あれが欲しい、あそこに行きたい、あそこには行きたくない、全てが自分の判断です。全てが私中心という道です。

肉と欲のままに生きていったその行きつくところは、神の御怒りがその上にとまっているとあります。生まれた時からもうすでに神の御怒りが臨んでいる、そういう状態で全ての人はこのように生まれてきました。

生まれた後行くところはどのような道でしょうか。それはイエス様が広い道を歩んでいると言われました。マタイの福音書の7章の13節。この世の中の流れというものがあります。日本人であれば日本人の世の中の流れ、20世紀で生まれた人は20世紀の日本の時代の流れがあり、21世紀に入ってきましたから、今も21世紀の日本人の多くの人、99%以上の人、99.7%と言ってもいいかもしれません。もっとかもしれません。ほとんどの人は広い道を行ってます。

その広い道というのは世の中の流れであり、世の中の流れというのは何でしょうか。それは偶像礼拝の道です。神の怒りはこの偶像礼拝の上に臨みますから、多くの人たちは「私の神々」という形でたくさんの神々に仕えて今も生きています。それが年末年始の人々の生活を見れば明らかです。クリスマス礼拝を捧げたと思えば元旦は初詣に行ったり、色々の人々がその歩んでいるその道を見ればどれほど広い道を歩いているかということです。

ただそれは足が教会に行っただけ、ただ足が神社お寺に向いていった。自然になぜか分かりませんけれども、自然にその足が広い道へと向かっていきます。このような広い道を歩んでいると、当然神様の御怒りは何かっていうと、呪いと災いが起こります。「新年早々どうしてこういうような呪いと災いが日本に臨んだんでしょうか」そういう質問が来ましたけれども、それに対する答えがこの道の上を歩いているからです。

それでそのような道は聖書では罪人の道と呼んでいます。詩編の1編の1節です。罪人の道というのはどういう道でしょうか。人間のこの肉の目でその道を見るならば、広いだけではなくてまっすぐに見えるそういう道です。人の目にはまっすぐに見えるけれども、しかし的外れな道ということです。神様の義である、その神の目から見たら曲がった道ということです。それが罪という言葉が「的外れ」というそのところから来ています。人間は行くべき道から逸れてしまいました。神様のことばから離れたということは、全ての人の道が的外れになったということです。

この道の行きつくところは死と滅びの道と、そのように聖書に書かれています。それで自分がキリスト者だということ、そのことが確かであるかどうかということは、皆さんが今いる道がどこにあるかということです。神様は一人の人も滅びることを望んでおられませんから、神様は救いの道を前もって準備してくださいました。

それが出エジプトの道です。エジプトが意味しているのは、このような広い道、みんなが通っているそのような道がこのエジプトという言葉です。だからエジプトを脱出しなければ救われません。それが出エジプトということです。出エジプト記の12章の41節、契約の民は一団となってこののエジプトを出たとあります。出エジプトが完了したということです。

それは何によって完了したのでしょうか。ここに2つの道がありました。1つは「羊の血を塗りなさい」。その家の玄関入り口と門柱と鴨居に羊を殺してその赤い血を塗りなさい。それが神様が命じられたことです。意味していることはキリストの十字架ということです。

神の子羊が送られてきて十字架の上で、罪のないそのからだから血が流れます。その血を信じるというその道です。その血が私のために流された契約の血である、そのように信じて受け入れた人は今度はこの海の中を通るようになります。この海というのが紅海です。この海を通る、それがバプテスマということです。

父と子と御霊の御名によってバプテスマを受けたということは、「私はキリストが十字架につけられて死んだように、私もキリストと共に十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです」。このみことばがバプテスマによって、海と空を通過することによって成就します。

それで出エジプトしたということのその証拠は何でしょうか。それは幕屋で礼拝を捧げるようになるということです。幕屋は天にある御座のひな形です。御座は目に見ることができません。それで神様の方から目で見えるような形でこの地上に幕屋を造りなさいと、そのように命じられました。命じられた通りに幕屋が完成した時に、主の栄光が幕屋に満ちたとあります。出エジプト記の40章の34節。

つまり礼拝というものは神様の栄光を見た人が捧げるもの、それが礼拝です。ですから神様の栄光を一度も見てないという人は、礼拝を捧げることは実際にはできません。本当に神様は素晴らしい方だと何らかの形で闇の心の中に光が入ったというその経験、闇の心の死んでいたたましいの中にいのちが入ったという経験、神様のことば が一つもないそのような私の中に神のことばが臨んだという経験、それが幕屋ということです。

幕屋の中には何があるのでしょうか。契約の箱があり、いのちのパン、パンの机があり、燭台があります。それで幕屋の中に入ったということは、この神様のことば、永遠のいのち、まことの光を味わったということです。一つもないということはその人が救われているかどうかわかりません。なぜならば主の栄光がその人の中に臨んでいないので、依然として真っ暗闇の中、闇、混沌、虚しさ、この中にいるということです。

自分はここにいるつもりであったとしても、実際に主の栄光を自分は一度も見たことないという場合は、ここにいるかもしれないということです。それでこの幕屋が人となってこのように来ました。ヨハネ福音書の1章の14節。「このことばは人となって幕屋を張られた」。人間となってこの世に生まれて、そしてその名をイエスとつけられました。

このイエスとつけられた方が生贄の羊となって十字架の上で屠られました。死んで3日目に死者の中から蘇られました。蘇られたイエス様が心の扉、闇の中の心の扉を叩いておられます。その声を聞いて受け入れたならばどうなるのでしょうか。イエス様、この幕屋が突然皆さんの中に入ってきたという経験です。つまり心の中に神殿が来たということです。

それで第1コリント人への手紙の3章の16節、「あなたがたのからだは神の神殿であって神の御霊が宿っている」という霊的な状態です。この状態は元来た道の状態とは全然違います。ここには神のことばもなければ永遠のいのちもなければ、まことの光もありません。しかし受け入れた人の中にはかすかかもしれないし、大きく主の栄光を見たというそういう人もいるかもしれません。その受け入れた人によってその栄光の見え方は様々かもしれませんけども、確かなことはその人の中に神のことばがある、あるいは永遠のいのちが入った、死からいのちに移った、闇から光に移った、何らかの少なくともこの3つのうちの1つはなければ幕屋に栄光が満ちたというこの体験は一度もしたことがないということです。

そうすると海をまだ渡っていない、そういう状態になってしまいます。しかし海を渡ったということが確かであるならば、イエス様が信じた皆さんの中に内住してくださっています。聖霊が内住している、これが救いです。

救われたならば今度はその聖霊が導かれます。それが荒野で雲の柱、火の柱のように見えて、これは神がその雲の柱、火の柱の中におられるという目に見える神の栄光の現れです。契約の民は必ずこの雲の柱、火の柱の下に留まっているということです。この雲の柱、火の柱が突然移動します。そうすると荒野にいた民も突然いきなりですね、出発をする準備をしてこの雲の柱、火の柱についてきます。それが荒野での生活でした。何日もその雲の柱、火の柱がとどまると民はいつまでもそこにとまっています。これが信仰生活ということです。

荒野にエジプトを出た民は荒野に導かれましたけれども、荒野は何もない非常に生活をするのに不便な状態です。その時にエジプトを見る、後ろを振り返る人たちがいます。ロトの妻のように「ああ、エジプトは良かった」と、そのように後ろを振り返って昔に戻りたいと、そういう人たちもいます。救われてはいても昔のような好き勝手な生活ができないということで契約、聖霊の導きについていくということは肉によっては非常に不便なことです。

「ああ自分は今まで自由にできていたけれども、今は聖霊が私の中に内住して私を導いてくださっているので、私の肉の思いの通りには生きていけない」と思うと、なかなかそこで不便不自由を感じて、ああ元来た道に引き返したいと。確かに荒野に導かれて契約の血を塗ったその民も荒野に入ってきているんですけれども、荒野で一生が終わっていってしまいます。

契約を握っていれば行くべきところは天国ですから、ここで天国に行ってしまう、神様の国に移される人たちもいるでしょう。しかし神様が願っていることは、この荒野で一生を過ごして欲しくないということです。ここは信仰が訓練されるそのような時刻表です。つまり後ろを振り向くのでもなく、御座を見上げるそのような時刻表です。御座が見えてくるようになると荒野で生活していても何も問題はありません。

朝ごとにマナが与えられて、水がなければ岩から水が出ますし、「40年の間あなた方が着ていた着物はすり減らなかった」とあります。神様が共におられるというこのみことばが成就しますから。荒野で確かに不便な、あるいは苦しい生活をしているかもしれませんけれども、しかし何の不自由もない生活ができるということです。「主は私の羊飼い、私は乏しいことがありません」と。まことの牧者であるキリストが先頭に立って雲の柱、火の柱を持って前進していきますから、そこについていくだけです。

それでいつまでも荒野にいるのではなく、これから行く道です。これがまず、ほとんどのクリスチャンは荒野にいますから、荒野の行程を行かなければなりません。申命記の8章の2節。このところでなぜ神様が神の子どもたちを荒野へと導かれたか、その理由が述べられています。それはあなたがたを苦しめ、あるいはあなたがたを試み、そして飢えさせるとありました。荒野というのはそういう環境ですから、そこにいるということは苦しみ、試み、飢えがあるということです。

この目的は何でしょうか。それは「あなたがたの心がどういうものか」ということを神様が知るため、そのようにあります。人間は良い環境に置かれて何の問題もなければ、「神様、神様」と。荒野であったとしても褒めたたえるでしょう。神様が全部私に財産もくださって、子どももくださって、病気は一つもない、ヨブのようなそういう状態だったら、サタンも言います。「そんな人であれば誰だって神様を褒めたたえますよ。苦しめてみてください、試みてください、本音が出ますよ」と。

神様はそのようなことをサタンに許可しました。それはその心に本音が何であるか。その心がただ「私は衣食住だけで満足です」と、「食べていければいいです」という人たちもたくさんいます。もう食べていくために私は働いているんです。もうお金さえもらえばそれでいいです。多少お金が溜まったら少しはポジションが良くなって、少しは贅沢ができるようになって、少しは良い人だと人々から賞賛されるようになったら、もうそれは満足ですと。ただこの地上のことだけを見ている人たち、それは全てこの以前の私たちが通っていたその道を歩んでいる人たちです。

荒野でこのようなことを通して苦しめた時に、私はパンだけで生きるのではなく、あなたの口から出る一つ一つのことばによって生きたいと、そのような人たちが出てきます。ただ衣食住で十分だという人たちは荒野で死んでいきました。しかし、私は神様のことばについていきます。神様のことばについていったらどうなるのでしょうか。それは行きつくところは聖書は、ただキリストだけ。

聖書が書かれた目的はイエス様がキリストですということが主題ですから、キリストが全てと、このように福音に結論が出ること。これが荒野の訓練の目的です。福音に結論が出るということは、どういうことでしょうか。いろんな問題があったとしても、ヨハネ福音書の19章の30節、私の全ての問題は終わったということです。問題が解決したから終わったという結論ではなくて、ヨブのように今財産を失い、子どもを失い、健康を失った。でもそれでいいです。そういうことです。

なぜでしょうか。キリストで十分ということです。第2コリント人への手紙の12章の9節、私は弱いけれども、私の弱さも問題ではありません。キリストの力が私を覆ってくださるので、私はそれで十分です。今置かれている環境境遇、そういうものだけで、そこに神様が私を置かれたんですから、もうそれで十分ですという信仰です。

そしてキリストが全て、コロサイ人への手紙の2章の2節、私は無学です。知識もなければ知恵もありません。それでも問題はないということです。なぜならば、全ての知恵と知識との宝はこのキリストのうちに隠されているので、その人がキリストで全てだと、そのように信じるならば、神の知恵、神の知識がその人の中に啓示して表されるようになりますから。あ、本当に私は愚かだったけれども、今は悟りが与えられました。みことばの戸が開くと光が差し込み、わきまえの無いものに悟りを与えます。それでただキリストだけで十分です。全てです。全ては終わりました。これが福音に結論を出したということです。

福音に結論を出したその人は、福音に結論が出たかどうかということの証拠は何でしょうか。それは私は契約の箱についていきますという信仰です。ヨシュア記3章11節、ここを読んでみます。ヨシュア記3章11節、見よ、全地の主の契約の箱があなたがたの先頭に立って、ヨルダン川を渡ろうとしている。つまり今いる現住所はヨルダン川のその川辺にいるということです。今日の本文はこのところから、ここに渡っていこうとしているということです。

これが契約の箱ということです。祭司たちがその四人で契約の箱を担いでヨルダン川を、この水が流れています。ここを渡った時はもう水は分かれて道ができていましたが、ここを渡ろうとする時には依然として川の水が流れている状態です。祭司たちが信仰を持ってその契約の箱を担いで川辺に足を踏みおろそうとするその瞬間に、この水が堰き止められるということです。それで川の中、ここはヨルダン川ですね、川の中に道ができたということです。

ですから誰でもこんな信仰に満たされて入れるという状態ではありません。40年間荒野を彷徨った大人たちは、ヨシュアとカレブを除いて全てここで死んでいきました。ヨシュアとカレブと、それからレムナント、残された次の世代、その人たちがこの契約の箱についていこう。こちらは神様が私たちに与えてくださる約束の地、征服するべきそのところだから、是非私たちはそこに行きましょうと渡る決断をしているわけです。その信仰によって川の水が堰き止められました。

ですから自分の前に置かれている状態というのは、絶対不可能というものが見えます。日本福音化、99.7%もの人が今信じていない、こういう日本でどうやって日本福音化がなるでしょうか。肉で考えると、自分の目で見ると絶対不可能です。ところが契約の箱に自分はついていくと、その信仰に満たされているならば、水が分かれるということです。神様はこちらに約束の地に契約の民を導こうと、もうそれはすでに神様が決定していることだからです。

そこで征服することができる人たちは、肉の目ではなくて心の目が開かれた人です。ヨブ記42章2節。このところにヨブが告白しました。あなたには全てができること、どんな計画も成し遂げられることを私は知りました。心の目が開いたヨブは、神様は全能であって全知であって、そして神様が世界福音化という計画を立てられたならば、それは神様にとっては可能なことだと信仰に満たされた人たちも、それは可能です。是非登っていきましょう。

そのような信仰の決断をすることができる人は、私の残った人生というのは伝道と宣教のために神様が計画をしておられるんだ。そのように福音に答えが出ると、残された自分の人生が見えてくるようになります。あ、私の行くべき道はこれだ。あなたがたが行くべき道を教えよう、その教えが自分の心とたましいに臨んできます。あ、これが道だ。ヨルダン川を渡ってカナンに入って、エリコの城を崩してというように一歩一歩神様が門を開いて、そしてその地を占領するように導いていかれるので、私はその契約の箱についていきます。そのような信仰を持たれる皆さん一人お一人となりますように、主の御名で祝福をお祈りいたします。

父なる神様、恵みを感謝をいたします。新しい年、私たち契約の民が一人一人行くべき道を教えてください。一人一人の時刻表に従って、神様がインマヌエルの祝福と御座の祝福を持って、この契約の民を導いてください。一人一人を神様ご自身と恵みのみことばとに委ねいたします。イエス様のお名前によってお祈りいたします。アーメン。