新宿キリスト教会ブログ

今まで一度も福音を聞いたことのない方へ

【書き起こし】2024年12月29日 主日礼拝メッセージ『キリスト信仰に伴う豊かな報酬』(ヘブル11:5-6)

2024年12月29日 主日礼拝メッセージ『キリスト信仰に伴う豊かな報酬』(ヘブル11:5-6)

https://www.youtube.com/watch?v=tqV6Ai2kM40

 

"信仰によって、エノクは死を見ることのないように移されました。神に移されて、見えなくなりました。移される前に、彼は神に喜ばれていることが、あかしされていました。

信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです。"

ヘブル人への手紙 11章5~6節

 

この年最後の礼拝となりましたけれども、神様の御前に賛美のいけにえが捧げられました、暗闇の力が打ち砕かれ、神の国が臨み、神様が一番喜ばれるいけにえ、それは賛美のいけにえです。主の栄光が現れる、そのような礼拝となりますように共に祈っていただきたいと思います。

 

世の中では今年収103万円の壁ということが言われています。その壁は間もなく崩れるでしょうけれども、教会には伝道と宣教が50年の壁というものがあります。つまり今まで2000年にわたるキリスト教会の歴史の中で伝道運動が始められたことは何度もありますけれども、しかし50年を超えて伝道運動が続いている、続いたということはないという意味です。

 

例えばイギリスでメソジスト運動というものが起こりました。18世紀のことです。その運動は本当にイギリス国内を変えるほどの大きな働きになりました。世界に宣教師が遣わされましたが、しかしその運動も50年を超えることはなかったということです。リバイバルであるとかそのようないのちの運動が起こります。その運動が大きくなるとやがて組織化されていきます。そして組織化されると、それがいつの間にか形骸化、かたちだけのものになって、最初にあったいのちの運動、力の運動というものが消え去っていってしまうということです。

 

タラッパン伝道運動は今から35年ぐらい前でしょうか。柳グァンス牧師がイエスはキリストというこの初代教会の宣べ伝えた福音を神様の恵みによって悟り、そしてこの伝道運動が始まりました。残る15年というのがその今までの教会の歴史を変えるかどうかということの鍵となります。つまりこれから10年15年の間にこの伝道運動のバトンを受けるそのような次世代が立つかどうかということです。

 

1つの伝道運動が50年を超えないということは、大体1人で終わってしまうからです。後継者が立てられないとその伝道運動が終わってしまいます。切り株と私たちが呼んでいるそのレムナント、今どれぐらいのレムナントがいるか分かりませんけれども、そのレムナントの中から1人立てばいいわけです。この伝道運動を受け継いでいくそのような8番目のレムナントが今必要とされています。

 

神様はこの伝道運動を喜んでくださるならば、どこかにこの伝道運動のバトンを受けるそのようなレムナントが隠されていると私はそのように信じています。というのは日本の1%の壁というのもあります。この1%の壁もプロテスタントの宣教師が日本に来られてから160年ぐらい経ちますけれども、まだ破られていません。

 

もし日本の1%の壁が破られるとするならば、この日本の中にイエス様がキリストというこの初代教会のこの正確な福音が証しされていく、それが鍵だと思っています。ですからこの運動が神様に喜ばれる運動であるならば、それは人間が何かをするということではありません。キリストを信じる信仰を持ったその後継者が日本に起こされるということです。

 

道宣教は人間の働きではありません。これは神様の働きです。そして神様はご自分が計画したその働きを必ず完成させてくださる、これが約束です。人間の働きであるならば途中で中断したりストップしたり、あるいは火が消えてしまうということがいくらでもあります。しかし神様が始められたその計画は、絶対に途中で中止してしまったり終わってしまうということはありえないことです。

 

だから必ず神様はご自分の計画を成し遂げてくださいます。そのような信仰を持つ人が必要であるということです。ヘブル11章の信仰の英雄たちを見ていますけれども、その信仰の英雄たちは皆自分の力とか努力とか行いというものでなしたのではなく、ただ信仰によってというのが全員に共通していることです。

 

働きの分野は様々ですけれども、ただ信仰によってということだけは皆同じですから、皆さんもただ信仰によってこの福音が本当に素晴らしいということを知り、体験し、味わったならば、神様に用いられる、そのような働き人となると信じています。

 

今日はキリスト信仰に伴う報酬ということですけれども、神様が豊かな報酬を準備していてくださいます。それはエノクがそうであったということが今日のメッセージです。

 

それでまず第一番目に、エノクという人はどのような人だったのでしょうか。何の働きもなかった人です。エノクは何かしたということが1つも述べられていません。そのような意味では全くアブラハムと同じです。アブラハムも何の行いもなくとありました。アブラハムが何か神様のためにこんなことをしたというその業績があったとすれば、もしかするとアブラハムは自分を誇ってしまうかもしれません。しかし何1つアブラハムは行いがなかったために誇ることがありませんでした。

 

エノクもまた1つも誇るようなことがありませんでした。エノクの生涯を見ていくと、まず神様から離れていた、そのような離れたそのような時がありました。それは65年間だとありました。65歳まで神様のことを知りませんでした。この65歳になった時にエノクの人生にターニングポイント、人生をBCとAD、キリスト前とキリスト後に、そのように2つに綺麗に分かれるようなことがこのエノクの生涯に起こりました。それは子どもが生まれたということが記されています。

 

大体の人の場合は、キリストを信じる前はこういうことをしていたけれども、ある日キリストを知って、そしてこのように変わったということが書かれていますけれども、エノクがどのようにしてキリストを知るようになったのか、神様の存在を知り神様を求めるようになったのか聖書に書かれていません。ですから私たちも想像はできますけれども、聖書がそのことを隠しているということは私たちも知らなくても問題はないということです。

 

確かに神様から離れた65年があり、そして65歳の時に子どもが生まれたということが何らかのきっかけとなりました。もしかすると子どもを与えてくださいと祈った祈りの答えが与えられたとか、子どもが生まれたその神秘的なその誕生というものを見た時に、これは神様が自分に与えてくださった神様からの賜物、そのように色々な意味で神様が存在するんだ、その神様が私に報いてくださったんだというようなことを経験したのかもしれませんけれども、それは一切不明です。

 

神様から離れた65年と神と共に歩んだ300年があったということです。そして合わせるとエノクの人生は365年だったということです。その前後はただ生まれて死んだ、生まれて死んだということの繰り返しです。今のほとんどの人たちも皆神様から離れていますから、生まれて死んだ、生まれて食べて死んだその繰り返しです。しかしエノクの場合は神が天に移されたとあります。ある日突然エノクがこの地上の生涯から姿を消して見えなくなってしまいました。

 

日本ではそのような時に神隠しという言葉があって使われる人がいるようですけれども、神様が隠したのでその人はいなくなってしまったと、そういう風に神様を信じない人はそのような表現を使う以外にありませんけれども、しかし聖書はそうではなくて神様がエノクを移したと書かれています。

 

それでどこに移したのでしょうか。それは御座に移されたということです。ヘブル人のその考え方は1番下の第一の天というものがあります。この第一の天というのは創世記の1章の1節、初めに神が天と地を創造した、ですから神様に造られた地があります。ここに私たち、エノクも地球ここにいたということです。

 

詩編の19編の1節には「天は神の栄光を語りつげ、大空は御手のわざを知らせる」とあります。私たちが今日も青空が輝いていますけれども、この大空を見た時にこれは神様の手によって作られたそういう世界だと、神のことばによってこの世界が造られたとありますから、目に見えない神様のことばが「光をあれ」とそのように発せられると光が造られ、神様が6日の間にこの天と地とその中にある全てのもの、私たち人間をも創造されました。エノクもそのような1人です。

 

しかしこの神様が造られた人間とこの世界というのはどういう世界でしょうか。それはヘブル人への手紙の9章の11節、このところに神様によって造られた被造物ですから、全ての私たちが今目にしている被造物はやがて古びてそして滅びていくということがもう言われています。そういう意味でこの世界は虚像というように表現しますけれども、やがては消え去っていくそのような世界であるということです。

 

この上のところに第二の天というものがあります。そして1番上が第三の天です。第三の天には何があるのでしょうか。そこにはシオンの山があり、そして神の都があります。神の都です。そのところに生ける神の都には天にあるエルサレム、そしてそこに御座があります。御座というのは神様がおられるところ、それが御座です。神様は御座におられてその右の座にほふられた子羊、神のひとり子がおられるとあります。

 

ステパノが殉教する直前、天が開けたとあります。この第一の天が開かれ、第二の天が開いて第三の天が見えたということです。間もなく自分は殉教の死を遂げようとしていますけれども、この御座にイエス様が立っているのが見えたとあります。つまり心の目が開いた時にこの目に見えない世界が見えるようになるということです。

 

そういう意味でこの地上が虚像であるというならば、ここは実像の世界です。実像の世界というのは創造に属さない永遠の世界のことです。そしてこのところにキリストがおられて、そして御座からいのちの川が流れ、そしていのちの木が両岸に植えられています。この御座の前に誰がいるのでしょうか。無数の御使いがここに膝づいて、御使いは皆御子の前にひれ伏せ、ここで栄光とほまれと賛美を御座におられる方に捧げています。

 

それからここに何があるのでしょうか。教会があります。天に登録されている長子の教会とあります。つまりこのところに皆さんがイエス様がキリストであるということを信じているということは、今皆さんの霊的な現住所はここであるということです。

 

地上はこの地においてはこの建物の会堂の中ですけれども、同時に長子たちの教会、天に登録されている皆さんがいのちの書に名前が記されているならば、ここにいるということです。「御座に座らせてくださいました」このみことばの通りに今霊的な世界がありますから、このエノクはこのところに引き上げられた、移されたということです。

 

他にこのようにして移された人はエリヤです。エリヤは火の戦車と火の馬に乗ってこの天に帰っていきました。このところにイエス様がおられますから、イエス様がおっしゃった言葉は「あなた方は心を騒がせてはなりません。神を信じなさい」と言いました。「私はあなた方のために場所を用意しに行くのです。そしてこの神の国、神の都に皆さんのための場所ができたならば、また来てあなた方をこのところに迎えます」とそのようにおっしゃいました。つまり地上の生涯が私たちが終わる日、それはこのところに移される日ということです。

 

そういう意味で地上の人生が終わるということは何の問題もありません。ただ場所が変わるということだけです。むしろ場所が変わった方がその人にとってはもっと幸せです。なぜならばこのところに移された時にはもう病気とか苦しみとか悩みとか叫びとかそういうものは一切ないからです。さっき賛美を捧げられたようにここでは御座についておられる方と子羊とに永遠に栄光とほまれと賛美が捧げられています。

 

ですから何も問題がありません。地上の人生を私たちが肉体を持って生きているということは色々な問題の連続です。もちろんそこにも神様のご計画があり神様の祝福がありますから何も問題ではありませんけれども、しかしやはり肉体の痛みとか苦しみとか、また寂しい心とか精神の寂しさとか、やはり人間ですから弱さを持っていますので、そのようなものは避けられませんけれども、しかしここに行けば何の問題もありません。そのようなところに神様はエノクを移されたということです。

 

ヘブル人への手紙の11章の5節、「信仰によってエノクは死を見ることがないように移されました。神に移されて見えなくなりました。移される前に彼は神に喜ばれていることが証しされていました。」このようにしてエノクの地上の生涯が365年で終わって、そしてこちらにいるということです。

 

それで3番目に、信仰というものには必ず報酬が伴うということです。6節「信仰がなくては神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることを信じなければならないからです」これがヘブル人の手紙の11章の6節。信仰に報酬があるということは反対もあるということです。不信仰ということです。

 

不信仰にはどういう報酬が来るのでしょうか。ローマ人への手紙の6章の23節、罪から来る報酬は死です。全ての人が罪を持っています。神から離れたということが全ての罪です。全ての人は神様から離れてこの世に生まれてきます。それで全ての人が罪を持っているので、その報酬である死を免れることができません。

 

しかしイエス様がこの十字架の上で血を流して死んでくださいました。そして3日目に蘇られました。そして今イエス様は御座について栄光とほまれの冠を受けておられます。この福音、私たち人間にとって素晴らしい喜びの知らせが宣べ伝えられてきます。その時に罪とは何でしょうか。ヨハネ福音書の16章の9節「私を信じないことが罪です」とそのようにイエス様がおっしゃいました。

 

つまりもう全ての人のあがない、赦されるために十字架が立てられました。そのキリストの十字架を信じない、もうあなたのために全ての問題が解決していますと言っても「私は信じません」というのが、この罪ということです。ですからこの罪から来る報酬はただ死というだけではありません。ハデスの門とあります。マタイの福音書の16章の18節、ハデスというのは死んだ人が最後の審判を待つそのようなところです。そのところに全ての人が神様から離れて最後の審判を待っています。

 

しかしイエス様はこのハデスにまで下っていって、全ての問題は十字架の上で終わったということを宣言しました。ですからここに入ってしまったならば、もうここから逃れることはできません。洪水の時代にノアの時代、このハデスに行ってる人たちがたくさんいたとあります。ノアとその家族以外は全てハデスに落ちてしまいました。ですから今私たちがこの福音を信じないで死んでしまったならば、ハデスに落ちてそして最後の審判を待つだけのそのような状況になってしまいます。

 

そのためには、そうならないためには、まず神に近づくということが必要です。神様に近づく、どうしたらいいのでしょうか。前回見てきましたように、アベルのいけにえが必要です。神様の前に出ようとするならば、血を携えて出なければなりません。それは神様は聖なる方だからです。そして人間は汚れたものです。汚れた人間が聖なる神様の前に出たならば必ず死ななければならない、そしてこの死を意味するのがいけにえであり、そして十字架です。本来ならば汚れた私が死んで滅びなければならない、しかし代わりにキリストがいけにえとなって十字架の上で血を流して死んでくださいました。

 

それでヘブル人への手紙10章19節、イエスの血によって私たちは御座の前に近づくのです。神様の前に近づけるただひとつの方法は、イエス様の血を携えていくということです。そして神様の前に出たならば、今度は神様を求めるということです。

 

神を求めるということはどういうことでしょうか。マタイの福音書6章33節「神の国とその義とをまず第一に求めなさい」。神の国です。この第三の天を第一に求めなさいということです。

 

ほとんどの人は自分のことを求めて、キリストイエスのことを求めている人は誰もいません。そのようにパウロはピリピ人への手紙の中に書いています。自分のご利益だけを求めて神様に近づいて神様を求める、そのような人たちばかりだということです。誰もキリストイエスを求めて神様の前に出る人はいません。

 

じゃあ神様を求めるということはどういうことでしょうか。まずバベルの時代のように「私の名をあげよう」というのではなく、「あなたの御名が崇められますように」。パウロは自分の死によってもキリストの御名が崇められるならば、もうそれで十分ですと言いました。自分の名前などどうでもいい、ただキリストイエスの御名が崇められさえすればもうそれで私は満足です、という信仰です。

 

御国が来ますように。神の国がここにありますから、この神の国がこの地に来ますように。御心が天で行われているように、この地に臨みますように、という祈りです。神の国がこの地に臨むこと、それが神様のご計画です。そしてそのご計画が神様の御心です。

 

私の心、皆さんの心ではなく、ただ神様の御心が成し遂げられますように。神様の御心は何でしょうか。全世界に出ていって、全ての造られたものに福音を宣べ伝えなさい、ということです。それが神様の御心です。

 

それで私たちはイエス様はキリストですという、この初代教会と同じ福音を握って現場に出ていきます。神様はどれほどこの福音が宣べ伝えられることを喜ばれることでしょうか。

 

反対を言うと、サタンと悪霊はそのことを一番嫌います。それで色々なかたちで福音伝道、福音宣教に邪魔が入ります。今も目に見えるような形で、テレビを通してとか、インターネットを通してとか、マスコミを通してとか、色々な方法でサタンは戦略を持って働いています。

 

ですからレムナントたちがすごく揺れてしまっているようです。今まではこの福音が本当だとそのように信じていたレムナントたちが、「あ、そのようなことが本当ならば私はもう離れていこう」と。ヘブル人への手紙の記者が書いたように、迫害が起こった時には多くの人の信仰が揺れて、そして元の宗教、神様から離れたところに戻っていこうと、そのようにする人たちがいます。

 

しかし義人は信仰によって生きる。これがただ一つ神様に喜ばれる道ですから。キリストを信じる信仰によって義と認められた神の子どもとされた人たちは、キリストを信じる信仰だけを神様が喜んでくださるのですから、ただキリストだけを宣べ伝える、それが一番神様に喜ばれる信仰です。

 

キリストプラスアルファをつけたならば、それは福音にまぜものをしてしまう、そのようなものを伝えているということです。ですからキリストにプラスアルファをつけないで、ただイエス様はキリスト。色々な迫害とか問題とか、そのようなものが伴うかもしれません。しかし神様がそのあかしを喜んでくださるとするならば、神様の働きに対して邪魔をすることができるような存在は天にも地にも一人もいません。

 

サタンでさえもそれを邪魔することは最終的にはできません。そして人間が何か邪魔をしようとしたとしても、サウロが邪魔をしました。キリスト者を迫害しました。その時にイエス様は何と言われたでしょうか。「とげのついた棒を蹴ることは、あなたにとって痛いことだ」。

 

正確な福音を宣べ伝えている人たちを迫害する、妨害する、そのような人は結局とげのついた棒を踏んでいることですから、自分に痛みが来ます。これはどうしようもないことです。そのことをパウロは知りました。「ああ、私は逆らっていたんだ」ということを知った時に、イエスはキリストであると今度はパウロが宣べ伝えました。

 

宣べ伝えた時に今度はパウロが迫害されるようになりました。パウロが伝えているイエスはキリストであるというのは異端だと。それで裁判をかけられて、そしてローマにまでパウロは連れて行かれました。しかしこのパウロが伝えた福音はローマだけではなく、今世界中に広がってきました。それは神様が生きて働いているということの目に見える証拠です。

 

ですから福音の光を消すことができる、そのような存在はどこにもいません。皆さんはこの初代教会で伝えられた福音のバトンを受けた、そのような人たちです。残されている地上の生涯、このバトンを次の世代、レムナントたちに受け継がせて、エノクのように地上を離れて、そして御座に皆さんが出れば、もうそれで何の問題もありません。

 

それゆえに神様に喜ばれる信仰、これはただキリストを信じる信仰だけですから、ただキリストだけを正確に知ってあかしする、そのような皆さんお一人お一人となりますように、主の御名で祝福をお祈りいたします。

 

父なる神様、恵みを感謝をいたします。ただあなたの恵みによってイエス様がキリストである、この信仰を持つことができたことを感謝をいたします。今私たちの現住所はエノクと同じように御座にありますから、自分が今どこにいるのかということを正確に知ってあかしすることができる証人として一人一人を用いてください。

 

新しい年を迎えようとしていますけれども、この福音宣教がますます世界に前進し拡大していきますように。主がご自身のわざを成し遂げてください。イエス様の御名によってお祈りいたします。アーメン。