2025年1月1日 新年礼拝メッセージ『第一幕から第二幕へ』(ローマ8:28)
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Simplenote:
"神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。"
ローマ人への手紙 8章28節
2024年が過ぎましたけれども、2024年という年は訓練の方向が変えられたそのような年でした。今までは韓国から日本巡回キャンプのチームが日本に来て黙想したり、あるいはこの会堂で集会をしたりというような方向で訓練がなされていました。
しかし去年からは韓国に、ジナンに3つの庭ができたということで、私たちが今度はジナンに行ってその3つの庭で訓練を受けるそのような方向に訓練が変わりました。そのような訓練の中でキムグ牧師の牧師夫人が海で事故に遭われて意識不明となってしまいました。今もそのような状態が続いていますので私たちは祈り続けますけれども、それだけではなくアニャン東部教会のキムドンゴン牧師が突然引退されました。またそれだけでもなくキムグ牧師も東部教会を辞任されて、巡礼者の教会という名前でジナンの方で教会が始められました。年明けを考えると本当に去年そのようなことが起ころうとは本当に想像できないようなことが立て続けに起こりましたから、私たち韓国の東部教会から宣教師として日本に私たちは遣わされて、このところに東部教会のような教会を立てたいというそのような信仰とビジョンで開拓が始められましたけれども、東部教会でそのようなことが起こったということは当然私たちにとっても教会にとっても色々な変化が訪れるということは避けられないそのような状況になっています。例えそうであったとしてもということです。たとえ韓国でそのようなことが起こってしまったと私の側から言うと起こって欲しくなかったと思えるような出来事なんですけれども、しかしそのことが実際に起こりましたし、またこれからこの年まだ誰も歩んだことのないそのような契約の予定2025年が始まりましたけれども何が起こるか誰も分かりません。
しかし例えそうであったとしても、神様は益としてくださるというのが約束です。それでキムグ牧師が去年の礼拝のメッセージの中で第1幕が閉じられて第2幕が上がったというそういうような表現をされましたから、この朝のタイトルは「第1幕から第2幕へ」というそのような題目にさせていただきました。
神を愛する人々、すなわち神のご計画に従って召された人のためには神が全てのことを働かせて益としてくださることを私たちは知っています。まず第1番目に神様のご計画は何でしょうか。神様はまず永遠な方ですから永遠の初めからご計画が立てられました。黙示録の13章の8節「世の初めからほふられた神の子羊」、世界が始まる前から神の子羊が屠られるということです。この神の子羊というのは神のひとり子のことです。神のひとり子が屠られるということは殺される、殺されたならば血が流されるということです。まずそこから永遠の始めが始まりました。
それで次は創造の初めです。ヘブル人への手紙の11章の3節、神のことばによってこの世界が造られました。「光よあれ」とそのように神が命じられると光ができた。天と地とその中にある全てのものはこの神のことばによって造られた、そのことを悟らなければなりません。私たちのこの目で見える全てのものは見えない神のことばによって創造されました。
その目的は人間を造るということです。これが中心です。「我々に似たものとして人を造ろう」神様がそのように計画されました。神のかたちに似たものとして人間は非常によく造られましたけれども、しかし天から落とされた御使い、古い蛇、悪魔ともサタンとも呼ばれるそのような存在が最初の人間を誘惑しました。
その結果人間は堕落してしまいました。それが創世記3章の問題です。神様が約束された善悪の知識の木の実を取って食べたら「あなたは必ず死ぬ」。それを見ると本当に美味しそうだったので惑わされてしまって最初の人間が取って食べてしまいました。その結果神様のことばの通りに人間の霊、たましいは死んでしまいました。
それでも神様は愛ですからその人間をなんとか救いたい、そのように人間を贖うそのような計画を立てられました。贖うということは代価を払って買い取るということです。そしてこの贖いが完成しました。ヘブル人への手紙の9章の12節、十字架の上でキリストがただ1回ご自分のからだから血を流したことによって永遠の贖いが完成しました。
しかし救われた神の子どもたち、皆さんも今救われていても色々な意味でまだ完全ではない、サタンから誘惑されたり、あるいは自分自身も弱さがあったりというような意味で信仰生活も非常に困難な状況に置かれていたりすると、これで救いが本当に完成してるんだろうかとそういう風に思われると思いますけれども、贖いは十字架の上で完全に成し遂げられましたけれども、この救いが完成するのはヘブル人への手紙の9章の28節です。キリストが再び来られる時ということです。
キリストは1度私たちの贖いのために屠られた子羊として、世界の、世の中の始まりにこのように来てくださいましたけれども、2度目に来られるその時にはあなた方の救いが完成される時ということです。キリストが再び来られたならば私たちは栄光から栄光へとキリストと同じ姿に変えられていきます。本当にこれはもう誘惑を受けることもありませんし罪を犯すこともありませんしというような完全な救いが成し遂げられます。そしてそれだけではなく神様が永遠に対してのみわざが完成します。黙示録の21章の6節というところに「全てのことは成就した」とあります。神様がご計画した初めのところから終わりまで全ては成就した。
このような神様のご計画があります。このようなご計画の中で人間が生まれてそして結婚してそして子どもが与えられたりそしてまた死んでというそのようなことが繰り返されています。そのような中で神様はご自分の定められた人、選ばれた人たちを召されたとあります。神様から召された人たちがいるということです。
誰が召されたのでしょうか。それはいのちの書に名前が記されている人がいます。黙示録の13章の8節このところです。「世の初めから屠られた子羊のいのちの書に誰々というようにその名前が記されている人」私たちには全く理解できないことです。しかしイエス様も「あなた方の名が天に記されていることを喜びなさい」と言われました。それで神様がそのようにして召してくださるということです。
創世記の12章1節から3節、アブラハムを神様は呼ばれました。「あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を離れて私が示した地へ行きなさい」そしてこれはアブラハムだけではなく私たちも同じです。生まれた時から創世記3章の中で全ての人は生まれてきますから偶像礼拝をしています。そして父の家には色々な偶像に満ちているそのようなところに私たちはアブラハムと同じように生まれてきました。
ある日栄光の神が現れて神のことばを私たちに伝えてくださいます。今で言うならば福音です。「イエス様はキリスト」とそのようにして福音の光が放たれた時に、今まで自分がいたその世界というのは暗闇の世界、サタンや諸々の悪霊に支配されているところだということを悟って人生の向きを変えること、神様が示される地、それはキリストが来られる地です。そこに人生の向きが変わった時に私は呼ばれたということが分かるようになります。
呼ばれた時に神様が約束を与えてくださいます。その約束を信じた時に神様は義と認めてくださいます。創世記の15章の6節、アブラハムの場合は夜空の星を神様が見せて「あなたの子孫はあの星のようになる」と言われました。アブラハム自身は老人で妻も年老いていて子どもが生まれそうもない、そういう現実を見るならば絶対不可能という状態でした。しかし「あなたの子孫はあの数えきれないほどの星になる」と言った時にアブラハムは主を信じた。主はアブラハムを義と認めたとあります。
つまり私たちがイエス様がキリスト、これも普通に考えたら信じられないようなことです。キリストがあなたのために十字架で死にました。3日目に死者の中から蘇りました。今も生きておられます。あなたの心を開いてイエス様を受け入れるならばあなたは救われます。と実際現場に行ってこのように福音を伝えた時に、何人もの人に「いや私は信じません、受け入れません」とそのように現場で、そのような反応を経験したならば、これは本当に誰でも信じられるようなことではないんだということが本人が1番分かるようになります。
100人に伝えて100人が全員受け入れたとするならばこれは誰でも信じられることです。しかし100人宣べ伝えてみてもしかすると1人しか信じないかもしれません。日本の人口で言うならば0.3%がクリスチャンということは、もし100人に伝えても1人も信じないということです。1%に満たないわけですから、そういうような中にあって皆さんが信じたということはこれは本当に奇跡的なことです。
信じたということは今度は教会に加えられたということです。ヘブル人への手紙の12章の23節「天に登録されている長子たちの教会」この長子っていうのはキリストのことを指しています。キリストが私たちの長子となり、私たちはキリストに似たものとなる、それが教会です。栄光から栄光へと、以前は私たちは悪魔のかたちでした。悪魔に似たものでした。それは天国には誰1人入れません。そんな存在が天国に入ったら天国が地獄になってしまいます。ですから天国に入ることができるのはキリストのかたちに栄光から栄光へと変えられていくそのような人たちです。
イエス様をキリストとして信じて救われたという救いの確信が与えられて、本当にこの福音は素晴らしいとそのように味わった人はどうなるのでしょうか。この福音を宣べ伝えるようになります。それは自分が嬉しいのでその喜びを他の人にシェアしたい、分かち合いたいということです。マルコの福音書の16章の15節「全世界に出ていって全ての造られたものに福音を宣べ伝えなさい」と。
そしてその人の地上の生涯が終わった時にエノクのように天に移されていきます。信仰の報酬は御国はあなた方のものだからですということです。このところにおいて栄光を受けるものとなります。コロサイ人への手紙の3章の24節、私たちがかつて罪を持っていた時には神様の栄光を受けるその基準に届きませんでした。しかし罪赦され。罪が赦されて、救われたというだけではなく、サタンの支配からまことの王であるキリストが解放してくださり、そしてまことの預言者であるキリストがその肉体の垂れ幕を引き裂いてくださったことによって、至聖所、神のことば、神のことばがあるそこに入ることができる道を開いてくださいました。
イエス様がキリストとして全ての問題を完了したと終わらせてくださいました。それで私たちの地上の生涯が終わった時に神様が準備してくださっている御国が備えられています。昨年のくれに私に伝道してくださった方が天に移されました。今週の土曜日が告別式ですけども、本当にその方が私に福音を伝えてくださったということは私にとってもものすごく大きな出来事ですから、その方がもう地上で会えないっていうことは寂しいですけれども、しかしまた御国で会えるというこの希望がありますから、世の中の人のようにああもう2度と会えないとか、そのようなことで悲しみに沈むようなことはありません。
それで3番目に神様の約束は全てのことを益としてくださるということです。これはどのようにしてなっていくのでしょうか。まず三位一体の神様は主権者でいらっしゃるということです。主権者でいらっしゃるということはこの万物をそのことばによって創造された方が今も万物をその足の下に従わせておられるということです。悪魔もあるいは諸々の悪霊も神様の足の下に置かれているということは当然のことですから、ローマ人への手紙の11章の36節「全てのことは神から発し神によってなり神に至るからです」とそこにはもう人間というものはある意味関係なく神様が全てのことを計画して、その中で神様が呼ばれた人たちがいる。そしてその呼ばれた人たちは神様がどういう方かということを知った時には、本当に私は神様のご計画の中で用いられるそのような働き人になりたいというそういう志が与えられます。なぜならば自分が救われたということがどれほど素晴らしいことかということを体験していますから、この素晴らしさを他の人にも味わってほしいとそのように思えるようになります。
それで神様の計画は全てが完成します。ピリピへの手紙の1章の6節「あなたがたのうちに良い働きを始められた方」それは神様です。「その方がキリストイエスの日までにそれを完成させてくださる」とあります。始めたけれども神様は途中で中断してしまったり、その計画が途中でダメになってしまうということは一切ないということです。なぜでしょうか。救いに与った時にイエス様を信じて心の中に受け入れた時に何が起こったのでしょうか。その信じたその人の中に神の御霊が宿りました。神様ご自身です。三位一体の神様の1人が信じている皆さんの中に今来ているということは最も良い方を神様は最初からくださったということです。
人間にとってこの益というものは誤解してお金だとかこの世の成功だとか癒しだとか、色々自分の都合が良いことが益だと、そのようにならなかったらこの約束のみことばはなってないとそのように誤解している人たちがたくさんいます。しかしあなた方のうちに良い働きを始められた方が最初から神ご自身を私たちにくださっているのですから、当然私たちの肉体が例えば病気で死んだとしても事故で亡くなったとしても、中におられる御霊がその人の霊と共に当然行くべき神の国へと私たちを導いてくださるってことは当然なことですから、神様はこの計画を完成させてくださいます。
しかしその完成するためには神様の定めの時というものがあります。ガラテヤ人への手紙の4章の4節「定めの時」、神様が決めておられるその時が来るまでは神様はそのことをなさいません。例えばこの定めの時っていうのはキリストが来られると神様が約束してくださいました。最初の福音、女の子孫が蛇の頭を踏み砕く、その約束が創世記3章でなされてこのガラテヤ人への手紙が書かれた時というか、この定めの時っていうのはひとり子がこの世に来られたその時ですから、それまでどれぐらいの時間がかかったでしょうか。ある学者はもしかすると4000年ぐらいかかったんじゃないかと、女の子孫が来ると言ってからキリストが来られた、それまでにそれぐらいかかったんじゃないかというほど神様はその人間が考えるほど早くはことを進めません。しかし遅れることもないと言われています。
今度はイエス様が来られて「私はまたすぐに来る」と言って天に帰っていかれました。テサロニケの人たちはもうすぐに来るんだと思って仕事もやめてしまいました。もう明日キリストが来られたならば仕事どころではない、勉強どころではないと。もう病気であったとしても貧しかったとしても全部の問題は一瞬で終わるわけですから、もうそんなの何があっても関係ないというような感じで待ち望んでいました。しかし初代教会にキリストは再臨されませんでした。中世の教会でも再臨されません。今の現代の教会でも今はまだ再び来られてはいません。
ですから再臨されると言ってからどれぐらいの時が経ったのでしょうか。2000年ほど経っています。神様の「すぐに」というのと私たちの「すぐに」という感覚は違いますから、神様が定められたその時が来たならば「私は速やかにそれをする」とそのようにおっしゃってます。来ていないのでそれがまだなされていないわけです。
それから神様は皆さんに契約を与えてくださいます。そして皆さんにその契約が与えられたならばその契約は必ず成就します。ヘブル人への手紙の10章の36節「あなた方が神の御心」神の御心というのは何でしょうか。神様が願っておられること、マルコの福音書の16章の15節「全世界に出ていって全ての造られたものに福音を宣べ伝えること」。99%の異邦人はまだ1度もこのイエス様はキリストという福音を聞いてませんから、あなた方がこの神の御心を行ってその約束のものを手に入れるために必要なのは忍耐ですってあります。待ち望まなければなりません。しかし信仰によって待ち望むならば必ず契約は成就するということです。
先ほどお話ししました私を救いに導くために神様が用いてくださった方が大きな夢とビジョンを持っていました。私も救われたばかりだったのでそれは成就するかなとそういう風に思わされました。まずその家の敷地にチャペルが立ったんですけどもそれはまず手始めであって、その方の夢ビジョンはその敷地に大きな教会を立てることでした。その教会の名前はグローリアと神の栄光と、もう教会の名前も決めて決められていたそのようなビジョンでした。それから40数年経っていつそれが成就するんだろうと私も楽しみにしてはいたんですけれども、しかしそれは今の時点でも成就しないままその人は天に移されていきました。
つまり契約ではなかったということです。神様から与えられたダビデのように「私は神殿を立てたいです」「いやあなたが立てるのではなくてソロモンが立てます」そのような契約を神様が与えられたならば、ソロモンがちゃんとその契約通りに神殿が立てられました。多くのクリスチャンは神様の約束とは別に自分の夢とか自分のビジョンとか、それを握ってそれがなっていかないと何か神様は全てのことを益としてくださってないとそういう風に思われるかもしれませんけれども、神様の方から言うならば「私はあなたにそんなそのような夢もビジョンも与えていません」ということだろうと思います。
つまりCVDIPと言われますように、まずCから始まらないとそのビジョンも夢も実際にはなっていかないってことです。しかし神様からその約束が与えられたということさえ確かならば、その約束のものを手に入れるために必要なのはただ忍耐、待ち望むことですっていうことです。時が来ればその約束は成就するからです。
そして義人は信仰によって生きる。ヘブル人への手紙の10章の38節、ヘブル人への手紙の11章の信仰の人々は皆信仰によって生きた人たちでした。皆さんと私も新しい年、ただ信仰だけで生きる。この信仰というのはキリストを信じる信仰、この神様のことばだけを信じる信仰です。神様のことばが皆さんに臨んだそれを契約として握ったならば、その義人は信仰によって生きるようになります。そして最後に、そのような義人に神様が用意してくださっているものがあります。それは何でしょうか。義人ですから当然、神の栄冠ということです。ピリピ人への手紙3章14節、地上の生涯をその人が終えて、そして神の国、天の御国に入ったならば、神の栄冠をその頭に乗せてくださるということです。それが神様が準備していてくださることです。
パウロはこの神の栄冠を受けるために、ただ1つのことに励んでいますとあります。もう後ろのことは全て忘れて、と。去年起こったこと、今まで私たちの人生の中でいろんなことが起こりましたけれども、もう過去のことはやり直すことも何もできませんから、全てのことを忘れ、あるいは場合によっては全てのものを捨ててということです。そして一心にということです。一心というのは1つの心です。
聖書には2つ心があるということが記されているみことばがありますけれども、その二心というのは不信仰の心がその人の心にあるということです。つまり神様の契約だけをしっかり握っていないで、何か疑いながら、もしかするとその約束は自分には成就しないかもしれないというと、二心ということです。ですからその不信仰を捨てなければなりません。ただ1つの心です。神様が約束してくださったこの約束は必ず成就するという信仰です。
二心を持ってる人の特徴は何でしょうか。それは揺れるということです。信仰がグラグラと揺れて、そして場合によってはヘブル書が書かれたその目的のように、前の宗教に戻ってしまおうとか、そのようにして世の中に戻ってしまおうとか、そのようになってしまうということです。しかし神の御霊が信じている皆さんの中に内住してくださり、そして今キリストが御座についておられて何をしておられるのでしょうか。神の子どもたちのために御座についてキリストが取りなしをしておられるとあります。
そのような霊的な世界の中に皆さんが置かれているということが目が開かれた時には、大丈夫だと。これら全てのことにあってもとパウロがこれら全てのことと言ってるものは迫害ですか、患難ですか、剣ですか、すべて悪いことばかりです。いいことがあって益になったということは1つもありません。場合によっては今まで弟子だと思っていた、その福音を伝えた人たちが皆私を捨てて行ってしまいましたとまで手紙の中に書かれています。ものすごく辛いだろうなと思います。あの人と一緒に今まで契約の預言を歩んでいたのに、いつの間にかあの人は自分を捨てて別の方へと行ってしまったと。1人2人ではなくて皆私を見捨ててとまで書かれていますから、パウロはものすごく辛かったと思います。
そしてパウロのいる場所は迫害だけではなくて牢の中で手紙が書かれたりします。この神の栄冠をというこの言葉も牢の中で書かれた手紙です。にも関わらず全てのことを益としてくださることを私は知っています。知ってるってことは体験していますということです。今までもいろんなことが自分の身に起こったけれども、1つ1つのことは振り返ってみると、本当にその時はどうしてなぜと思えるようなことがあってもやはり過去を振り返ってみると、あの時も主が私と共におられて私を助けて導いてくださったんだという、そういう体験がありますから、今どのようなことが起こっていたとしても、それも益としてくださる。これから未来どのようなことが起こるか、それは誰も分かりません。分かりませんけれども確かなことは、全てのことを働かせて神様を愛する人々、この神様のご計画に従って召された皆さん1人1人のためには、神様が全てのことを働かせて益としてくださる、それが約束です。
第1幕から第2幕へと私たちはステージを変えて導かれていこうとしています。どのようにどこに行くのか、どうなるのか、それはもちろん誰も分かりません。しかし神様は全てのことをご存知で私たちを呼んでくださいました。呼ばれてここまで導いてくださった方は真実な方でいらっしゃるということを本当に知っているならば、これから未来も当然その方が全てのことを働かせて益となるようにしてくださる、この信仰を持って2025年前進する皆さんお1人お1人となりますように。
主の御名で祝福をお祈りいたします。父なる神様、恵みを感謝いたします。2024年を導いてくださった主が、新しい年2025年の契約の旅程、この旅程を光の道しるべを持って私たちの足元をみことばが照らしてくださり、行くべき道が見えてきますようにしてくださることを信じます。イエス様の御名によってお祈りいたします。アーメン。