2025年01月05日 主日礼拝メッセージ『向きを変えて出発せよ』(申命1:5-8)
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2025年01月05日 主日礼拝メッセージ『向きを変えて出発せよ』(申命1:5-8)
"ヨルダンの向こうの地、モアブの地で、モーセは、このみおしえを説明し始めて言った。
私たちの神、主は、ホレブで私たちに告げて仰せられた。「あなたがたはこの山に長くとどまっていた。
向きを変えて、出発せよ。そしてエモリ人の山地に行き、その近隣のすべての地、アラバ、山地、低地、ネゲブ、海辺、カナン人の地、レバノン、さらにあの大河ユーフラテス川にまで行け。
見よ。わたしはその地をあなたがたの手に渡している。行け。その地を所有せよ。これは、主があなたがたの先祖アブラハム、イサク、ヤコブに誓って、彼らとその後の子孫に与えると言われた地である。」"
申命記 1章5~8節
私たちの生涯の中で過去を振り返って今現在どこにいるのかということを確認してこれから行こうとするその道を見つけることが非常に重要です。そういう意味で少し過去、去年を振り返ってみると、2024年という年はジナンに3つの庭ができたということで私たちは韓国に訓練に行くというような時刻表になりました。この教会からも何人もの方々が韓国でジナンで訓練を受けられたということは本当に神様の恵みだったと思います。
去年の後半になるとアニャン東部教会の牧師が引退し、チュクチョン東部教会の牧師が辞任されて、そしてジナンに巡礼者の教会が建てられました。それは全く予想外の出来事だったんですけれどももちろん神様は全てのことをご存知ですから去年の時刻表の中でそのようなことが起こることが許されました。
去年の暮れの12月のジナンでの巡礼者の教会のメッセージを聞いていると、今まで千葉とかこの東京で訓練が行われていましたけれども、そして千葉の場合は海に行って黙想したり東京の場合はこの会堂でメッセージが伝えられたりというようなことがありましたけれども、この年は対馬に偵察隊を送ってレビ学校の子どもたちとマリア伝道師がとりあえず今月対馬に行って、そこに黙想センターが可能かどうかということを探しに行くというような方向になっているようです。ジナンからも対馬に行き、また日本からも対馬に行くという方向であるならば本当に向きが変わって私たちも出発しなければなりません。神様がこの年どのように導かれるか分かりませんけれども契約の旅程の2025年が始まり、まだ誰も歩いたことのないそのような道をただみことばの道しるべに従って私たちは歩んでいく、そのような信仰の年となるように祈りたいと思います。
今黒板に地図を書きましたけれどもエジプトと荒野と約束の地この3つの地域というものは全ての人がこの3つの地域のどこかにいるということが示される、あるいは意味しているそのようなところです。1番目にエジプトにいるということはどういうことでしょうか。エジプトにいるということは奴隷の家にいるということです。奴隷の家ということは何の奴隷になっているのでしょうか。まずこの世の支配者であるサタン、この世というのは創世記3章、最初の人間アダムとエバが神様との約束を破って善悪の知識の木の実を取って食べた、その時からこの世はサタンが支配するようになりました。人間を誘惑したものです。天から落とされてそして神様に反逆するもの、私たち人間を惑わすもの、それが天から落とされた御使いでありサタン、悪魔となりました。そして私たちはその結果この世の奴隷となり、また罪の奴隷となりました。
1番大きな罪は神様を憎むという罪です。何が神様を憎むのでしょうか。その人が偶像に仕えているその状態が神様を憎んでいるということです。神様から離れた人間のたましい・霊は死んだ状態ですから今このように言ってもエジプトにいる人たちには全く意味が分かりません。どうして私が神様を憎んでいるんだろうか、神様の存在も分かりませんから憎むと言っても分かりません。神様の存在が分からない時は聖書で神様を愛しなさいと言われても私は何のことか全く意味が分かりませんでした。それと同じです。エジプトにいるということは神様以外のものに仕えているということです。それが何であったとしても父なる神様、御子イエス様、聖霊なる神様、この三位一体の神様が分からないということは天にいる諸々の悪霊と交わっているということです。
新しい年を迎えましたけれども多くの人たちがどこで礼拝を捧げているのかということです。それは場所の話ではありません。もちろん肉体がありますから場所も関わってきますけれども、その人のたましいが本当にエジプトの奴隷の家を出ることができたならば荒野に入ってますからここで礼拝が捧げられます。しかし奴隷の家にいるこの間はどこの場所で礼拝を捧げようと場所は関係ありません。ここからまず脱出しなければなりません。脱出する道は何でしょうか。ただ1つ、羊を殺してその血を塗らなければならないということです。私たちが住んでいるその家の玄関、かもいと門柱があります。入り口ここに血を塗って赤い血がその人の入り口に家に塗られているならば全ての呪いと災いは過ぎ越していきます。この血を塗ることというのは今の私たちに適用するならばキリストの十字架を信じるということです。私のためにキリストが十字架で代わりに死んで血を流してくださった、本来ならば罪人である私が死ななければならない、その代わりにキリストが私を愛していのちを捨ててくださった、これよりも大きな愛はないということが分かった時に愛という言葉が何なのかということがこの十字架だということが分かるようになります。
十字架が分からないという人には愛はないと聖書ははっきりとそのように書かれています。愛が何かということが見えませんから自分の中に愛がありませんし、また人を愛するということもできませんから偶像を愛するものとなってしまいます。自然にそうならざるを得ません。しかし神様の恵みの中である日イエス様がキリスト、この福音を聞いて信じたその瞬間に道が開かれます。ただ1つの道です。この道は旧約時代で言うならば海が2つに分かれて道ができたということです。
当時の人たちは空と海の中でモーセにつくバプテスマを受けました。しかし私たちはイエスにつくバプテスマ、イエス様が十字架で血を流して私のために死んでくださった、私もキリストと共に十字架で死にました。そしてキリストが死者の中から3日目に蘇られたように私もキリストと共に死んで蘇りました。これが永遠のいのちです。奴隷の家エジプトから連れ出されたということの証拠が荒野に導かれたということです。
荒野は何もないところです。人間が生きようとするならばそれは絶対不可能なそのような場所です。しかし別の言い方をすると荒野というのは御座を見上げて生きていくそのようなところです。つまり御座が見えなければ荒野で私たちは不信仰になってしまいます。しかしどのような状況に置かれていたとしても御座が見えるならばそこで神様が全てのものを与えてくださるということを知ることができる、それは霊的な世界が見えるからです。キリストを信じてバプテスマを受けた、あるいはモーセについて紅海を渡ったこの契約の民がこのシナイ山の方へと導かれてきました。
このシナイ山で神様はモーセに十戒という十の戒めと様々な律法を与えられました。今までどのようにして生きていったらいいのか、エジプトの奴隷であった契約の民は分かりません。それでこれから神様を信じる契約の民はこのように生きていくんだというその神様のことばが与えられました。さらにこの荒野で幕屋が造られました。これから偶像礼拝ではなく本当の神様を礼拝するということがどういうことなのか、幕屋が造られて祭司が立てられていけにえが捧げられました。
そしてこのところでその全てが完成して幕屋で祭司がいけにえを捧げた時に神の栄光がこの幕屋に満ちたとあります。神様が共におられるというこの印が契約の民に顕されました。その後で神様が語られたそのことばが向きを変えて出発せよということでした。あなた方は長いことこのところにとまっていたけれども時刻表が来たので向きを変えて出発しなさいと。
行った先がどこでしょうか。カデシュ・バルネアというところでした。ここまで行った時に神様は約束の地はこちらですからこの約束の地、登って占領しなさいと。そのように言われました。人々は神様がこのようにおっしゃったんですけれども登って占領する前にそこを探りに行かせてくださいと偵察するように提案しました。モーセはこの提案に対してよろしいということで受け入れて12部族の中から1人ずつ選ばれてこの約束の地を探りに行きました。本当にその地はよい地だったと認めました。神様が約束してくださったその地は本当によい地だと。よい地なのですからじゃ登っていこうとそのようにすればよかったわけですけれども、しかし彼らは不信仰になってしまいました。私たちがそこに行ったら自分たちは殺されてしまうともう登っていくことはやめようと。それがイスラエルの契約の民のほとんどでした。
それで神様はあなた方は向きを変えて荒野とそして元いたその紅海の方、その方向に向きを変えなさいとそのように言われました。そのように言われた時にモーセが契約の民にメッセージを伝えました。あなた方が奴隷の家であった時にあなた方が自分の力でこの奴隷の家から解放されたんですか。あなた方のために戦われたのは主でないですか。あなた方はただただ黙って主の救いを見なさいと言われてそして道が開かれて救われたじゃないですか。そして荒野に入ってきた間も神様が雲の柱火の柱を持って導かれたではないですか。まず雲の柱、火の柱です。これは何を意味してるのでしょうか。万軍の王である神様が御使いを遣わしてそしてあなた方が行くべき地を前もって導いておられるということです。
そのようにあなた方は今まで導かれてきて、そして幕屋を造りいけにえを捧げて礼拝を捧げて神様から十分な恵みを受けてきたのではないですか。神様から離れてこの奴隷になっていたあなた方が神様の前に近づいて、そのいけにえの血によって近づくことが許され、光の中におられる神様と交わることができるようになったということは十分な恵みではないですか。さらにあなた方は天から朝ごとにマナが与えられました。そしてあなた方はただマナを食べて生きるだけではなく神の口から出る1つ1つのことばで生きるようにされたのではないですかと神様が過去において契約の民にどのようにしてくださったのかということをモーセを通して伝えられた時に、彼らはこの不信仰が少し回復したのでしょうか。じゃ登っていこうとそういう風に言い出しました。
ところがもうそれは時が過ぎ去ってしまいました。神様が登って占領せよと言われたその時に登れば神様は共におられたんですけれども、もうあなた方が今登っていったとしても神様はあなた方と共にはいません、止めなさいと言いました。ところがこの不信仰な人たちは不遜にも行こうと。行ってはいけないと言われた時には今度は行こうと。行けと言われた時は行かないで、行くなと言われたら行こうと。それが肉です。御霊に導かれるのではなく肉によって行きましたけれども当然のことですけれども打ち倒されてしまいました。もう神様が共にいないのですからどんなに肉で頑張ったからといって約束の地を占領するなどということはそれは絶対不可能なことです。
そして向きが変えられてしまいました。あなた方はその不信仰の故に彷徨わなければならない。私が与えるとそのようにしてアブラハム、イサク、ヤコブ、この先祖たちに誓った地、それはあなた方は受け継ぐことはできないと言われました。じゃあ誰がこの地を受け継ぐのでしょうか。それは信仰の人です。この時代の中にあって信仰の人が2人いました。カレブとヨシュアです。この2人はこの約束の地に入ってきます。
それからあと約束の地に入っていくのは誰でしょうか。それはアブラハムの子孫たちです。誰がアブラハムの子孫でしょうか。キリストのものであるならばアブラハムの子孫です。そして約束の相続人です。皆さんがキリストと共に十字架につけられて死んでキリストと共に死者の中から蘇られて、そして今御座についておられるキリストが栄光とほまれの冠を受けて万物を足の下に従わせているということが見えるようになり信じられるようになったならば、その人こそがキリストのものですからアブラハムの子孫としてこの約束の地の相続人となります。それが神様のご計画である世界福音化です。このようにして神様のご計画は変わることがありません。
それで向きを変えてと言われました。結論です。まずどのように向きを変えるのでしょうか。自分がどこにいるのかという現在地を見失ってしまうと向きも全部が変わってしまいます。全ての人は奴隷の家で生まれたということは霊的に確かなことです。あなた方の父である悪魔、悪魔の支配の中で私たちは生きてきました、生まれてきました。ここから本当に荒野に移ったということは、自分は今までは世の中の奴隷であり罪の奴隷であった、今までは悪霊が自分の中に入ったり出たりしながら悪霊と交わって偶像礼拝をしていたものだという、その過去の自分の姿が分かりここから救われる道がただキリストだけ、十字架につけられたキリストだけを信じるその瞬間に海が別れて道ができました。この道を歩いたならば私は救われたということです。神の子どもになったということです。
イエス様を心の中に受け入れたために神の御霊が信じているその人の中に内住して導いてくださいます。それが荒野の生活です。神の恵みによって荒野に入った。しかし元々エジプトで不信仰な生活をしていましたから体質的にもう偶像が刻印され根をおろして体質になってますから、神様のことばを聞いてもいやそれはちょっと信じられない、信じられるようなみことばは簡単に信じますけれども、聖書を読んでこれは信じられる、しかしこれは信じないとそのようにして自分の判断で信じる信じないとそのように決めつけてしまってる人がいます。神の子どもなんですけれども全部それは頭の脳の問題です。もう考え方がそのようにして不信仰な体質になってしまっていますからそこが癒されなければなりません。
向きを不信仰から信仰へと、この荒野の訓練の中で向きが変わっていかなければなりません。神様の約束だったら私の頭では信じられないけれども、でもおことばですから信じます。それが信仰です。ですからこのようにして不信仰から信仰へと向きを変えなければなりません。不信仰のまま地上の生涯を過ごしてしまうと荒野で一生が終わってしまいます。それは神様の御心、ご計画ではありません。神様は約束の地、素晴らしい地に導きたいとその計画を持って奴隷の家から連れ出したのですから、荒野で一生が終わってしまうということは神様が望んでおられることではありません。
それで最後に、私たちの目から見たならば遠回りをするようであったとしても神様の約束は変わることがありません。ヘブル人への手紙の6章の17節このところに「神は約束の相続者たちにご計画の変わらないことと、さらにはっきりと誓いを持って保証された」とあります。神様が約束の地に入れたいというその計画はどんなに人が変わっても時代が変わっても神様の約束は、ご計画は絶対に変わらない、これを神様が誓われたということです。
それでこの荒野で彷徨った不信仰な人たちは地上から姿を消してしまいました。残った人たちはどのようにしてここに入っていくのでしょうか。遠回りをしてということです。ここから入れば近道で、すぐに入れますけれどもしかし死海の南の方からこのヨルダン側のこの東、ここに入ってきました。ここでモーセがこの申命記しと呼ばれるこの内容を語ったということです。目の前に約束の地が広がっています。そしてもうここはあなた方が入っていくべきそのような約束の地だと神様がモーセを通してここを占領しなさい、もうここはあなたがたに与えると約束した地だから、あなた方の力とか努力とか何か頑張りで占領するのではなく、ただ神様のことばについていきなさい。それだけでここはあなた方のものになるということです。
世界福音化というこの神様のご計画は昔も今もこれからも変わることがありません。教会が建てられたというその目的は、この地の果てにまでイエス様がキリストという正確な福音が宣べ伝えられていく、そのために「私はこの岩の上に私の教会を建てます」とそのようにイエス様がおっしゃいましたから、私たちがこの時代、荒野の教会です。天に登録されている長子たちの教会の中に私たちの名前が組み込まれています。それは自分たちがそうしたいとそのように願って名前が入れられたのではなくて、世界の基の置かれる前から一方的に神様の方で皆さんを選んで、そして時刻表が来たならば「神を愛する人々、神のご計画に従って召された人々のためには、神が全てのことを働かせて益としてくださる」というこの約束が成就するためです。そのような時刻表の中に皆さんは置かれて2025年という新しい年を迎えました。
色々な現実に起こる出来事を見ると不信仰にならざるを得ないような、そういうことがたくさん起こっています。それは事実です。しかしたとえそうであったとしても神様のみことばは永遠に変わることがありません。それはアブラハムとイサクとヤコブ、この先祖たちに与えたその約束の地はあなたがたにも与える、これのこの約束は変わることがありませんから、神様のみことばを自分に対して与えられた契約だとしっかりと握って不信仰にならないで、目に見える現実によって騙されたりしないで目指す地、それはカナンの地ですから向きを変えてそこに向かって出発という2025年の契約の旅程が始まるように主の御名で祝福をお祈りいたします。
父なる神様の恵みを感謝をいたします。新しい年もただみことばについていくことができるように信仰を与えてください。不信仰にさせるサタンと暗闇の力をキリストの御名によって完全に砕き退けてください。イエス様の御名によってお祈りいたします。アーメン。