新宿キリスト教会ブログ

今まで一度も福音を聞いたことのない方へ

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TEL 090-4260-5908 国邑(くにむら)牧師

 

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主日礼拝】(日曜)

子どもの礼拝 10:30

一部礼拝 11:00(Youtubeはこの礼拝のみです)

二部礼拝 13:00

三部礼拝 14:30

 

【金曜礼拝】

午後7:30

すべてYoutubeにて生放送しています✨

 

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(過去の礼拝メッセージ動画も見れます)

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ドラッグぱぱす大久保店の目の前です。わかりづらいビルですが、皆さまのお越しを心よりお待ちしています♪

 

※日曜以外は開いていないことが多いので、お気を付けください。

 

#インターネット礼拝 #キリスト#教会 #聖書 #福音 #新宿

(文字起こし)クリスマスメッセージ『すばらしい喜びの知らせ』(ルカ2:10-11)

メッセージ動画(YouTube)

 


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文字起こし

 

"御使いは彼らに言った。「恐れることはありません。今、私はこの民全体のためのすばらしい喜びを知らせに来たのです。きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。"

ルカの福音書 2章10~11節

 

クリスマスという日は、素晴らしい喜びの知らせが伝えられた、そのような日でした。で、今で言うならば、とってもいい情報ということですけれども、私が若い時から、もうすでに情報化時代、そのように言われていました。当時はテレビであるとか、ラジオ、新聞。それらが情報でした。

 

しかし今はそれに加えて、インターネットであるとか、スマートフォンであるとか、色々なかたちで情報がもっと伝えられていますから、まあ氾濫している時代と言っても言いすぎではないと思います。個人でも今はYouTubeを通して、いろんな情報が発信できる、そのような時代になりました。ですから人々は電車に乗ってもスマホを眺めて、色々な情報を見たり聞いたりしていると思います。

 

で、私はその情報を見たり聞いたりする時に、大体3つに分けています。1つはフェイクニュース。偽物、嘘ということです。昨日も、市の方から連絡が来ました。私の個人情報が盗まれました、と。もちろん私だけではなく何万人もの人でしょうけれども、その個人情報が盗まれましたから、というそのような知らせでした。で、インターネットで色々な偽のメールが届きますけれども、すぐに、そのような情報が偽物だと分かります。ですからまあ惑わされることは、ありませんけども、2つ目はそれは私にとっては聞いても聞かなくてもいい情報というものがあります。その情報を聞く時間が無駄な時間だったと。まあそのように思える場合は、もうすぐに聞かないようにします。で、3つ目はあ、本当にこれは知っておいても良い、そういう情報だと思うものもあります。ですからそのようにして、3つに。これはもう本当に嘘だと思うことと、まあ聞かない方がいいと思うものと、これは知っといた方がいい、そのように分けます。

 

で、クリスマスの、このとっても良い情報というのは、これは人間から出たものではなくて、また世の中の情報でもありません。この情報というものは、神様から人間に与えられた、そのような情報ですから「すばらしい喜びの知らせ」とそのように言われています。つまり、この知らせは必ず実現するということです。

 

そしてこの素晴らしい喜びの知らせを、自分のものだということを知って、そして味わった人は、いま特別賛美がされましたけども、その喜びが爆発するのが賛美です。自分がその喜びを知って、体験して味わうと、今まで歌っていた世の中の歌とか、そういうものとは全く違う。神様を賛美する、神様を褒めたえる、そのような賛美になりますから、御使いも、「天には栄光が神にあるように」そのように賛美しました。今まで自分の中になかった歌、それがその人の中に生まれたということです。ですからクリスマスというのは、この、すばらしい喜びの知らせです。

 

"すると、たちまち、その御使いといっしょに、多くの天の軍勢が現れて、神を賛美して言った。「いと高き所に、栄光が、神にあるように。地の上に、平和が、御心にかなう人々にあるように。」"

ルカの福音書 2章13~14節

 

それではまず第1番目に、クリスマスという日は、どのようなことが起こった日なのでしょうか。それは一言で言うならば、1人の男の子が生まれたという日です。で、夫婦にとって子供が生まれたというのは本当に、喜びの知らせです。ところが、この生まれた1人の男の子は私たちにとっては、ある意味で本当に関係がない、と思えるような、そういう誕生です。2000年も前の話ですし、またイスラエルの方の国、いま紛争が起こっているその地に、1人の男の子が生まれたという、そういう出来事です。

 

ですから、本当にどうして1人の子の誕生が、今クリスマスとして全世界の人々が。もちろん全ての人ではないにしても、少なくても10億とか20億とか、70億の人がいるとするならば、それほどの人が、この1人の男の子が生まれた日を喜んでいるのでしょうか。それはこの子の誕生というのは、生まれる以前から預言されていた、その子の誕生であるからです。

 

ミカという預言者がいますけれども、この誕生から何百年も前の預言者です。その預言者が預言しました。イスラエルの支配者がベツレヘムで生まれる。ダビデの町で。と言いましたけど、ダビデの町でというのは、ベツレヘムでということです。ベツレヘムに「イスラエルの支配者」が誕生する、これはもう神様が定めていることだと、旧約聖書の中に記されています。

 

"ベツレヘム・エフラテよ。あなたはユダの氏族の中で最も小さいものだが、あなたのうちから、わたしのために、イスラエルの支配者になる者が出る。その出ることは、昔から、永遠の昔からの定めである。"

ミカ書 5章2節

 

それで、前もって誕生が預言された、その方が来られたということです。さらにミカから遡ってもっと前から、その誕生が預言されていました。それは創世記3章、アダムとエバ人間の最初の先祖ですけれども、その2人が神様の契約を破って、そして悪魔に騙された直後のことです。その時に神様が、女の子孫が蛇の頭を踏み砕く。このように、この子の誕生は女の子孫として来られると、そのように約束されました。

 

"わたしは、おまえと女との間に、また、おまえの子孫と女の子孫との間に、敵意を置く。彼は、おまえの頭を踏み砕き、おまえは、彼のかかとにかみつく。」"

創世記 3章15節

 

で、女の子孫という言葉は、普通の言葉ではありません。全ての人間には父親がいますから、男の子孫です。皆さんがこの世に生まれてきたということは、父親によって誕生したということです。ところがこのベツレヘムで生まれた、その子の誕生には、父親は関係なかったということです。父親がいないのに、その子が誕生したということです。これは医学的にも科学的にも不思議なことですけれども、しかし聖書に、「処女がみごもって」男の子を生むと、そのように預言されました。ですから神様が前もって約束した通りに、生まれたということです。

 

"それゆえ、主みずから、あなたがたに一つのしるしを与えられる。見よ。処女がみごもっている。そして男の子を産み、その名を『インマヌエル』と名づける。"

イザヤ書 7章14節



最初の賛美歌は「もろびとこぞりて」という賛美歌でしたけれども、本当に賛美には力があると思わされます。それは幼稚園の頃、私が初めて聞いた賛美歌がこの「もろびとこぞりて」でした。で、1度幼稚園でクリスマスに聞いたこの賛美歌が私の心に深く、釘のように刻印されました。で、賛美のメロディーとか歌詞が、時々ですけれども思い出されました。で、まだ子供ですから、その歌詞の意味が分かりません。

 

この「もろびとこぞりて」の2節というところにこう書かれていますけれども、悪魔の「ひとや」を打ち砕きて、と。大人の方でもこの「ひとや」という意味は何なんだろうと、分からないで歌ってると思います。で、けさ辞書を調べてみると、この「人屋(ひとや)」というのは、罪人を捉えて押し込めておく、牢屋のこととあります。

 

で、私たち全ての人間は罪を持って、生まれてきていますから、もうその罪の人屋に閉じ込められていた、そういう存在でした。それからこの賛美歌の中に、悪魔のとりこになっていた私たちを、そのとりこから解き放つと、そのように歌われています。で、とりこになっているということは、捕虜であるということです。このことも、私たちは実感できません。今ほとんどの人は自分が悪魔の捕虜になっている、ということは分かりません。

 

しかし、創世記3章で私たちは、最初の人間アダムとエバが悪魔に騙された、その時からその子孫ですから、もう母の体に宿った時から、もう罪あるものとして、そしてこの世の流れに流されて奴隷のような状態で生きていると、そのように聖書にありますし、また実感として分かることは、この世の流れに流されながら、自分の中にあるもの、それは偽りであり、またむさぼりであり、そしてもう1つは愛がない、ということを知ります。

 

"そのころは、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊に従って、歩んでいました。"

エペソ人への手紙 2章2節

 

つまり生まれてきた私たちには、神様を愛するという、愛を1つも持っていません。ですから神様が全くわからないで生まれてきます。それで初めて神様に出会った時に、あ、本当に以前の私は、この世の流れに流されていて、そしてこの悪魔の捕虜になっていたという自分だった、ということが分かりますから、その人屋にという、そこに閉じ込められていた、そういう状態でいたんだ、ということが、はっきり分かるようになります。

 

それで、このことのために神様は私たちを救いたい、とそのように願っておられる方ですから、救い主をこの世に使わしてくださるという約束、それが先ほど御言葉にありましたように、今日ダビデの町ベツレヘムで、救い主がお生まれになりました、とあります。救い主が必要であるということです。

 

何かから、私たちは救われなければなりません。その何かというものの1つは、悪魔から救われなけれならない、ということです。悪魔の捕虜となっているという、その霊的な状態から私たちは解放される必要があります。

 

それで神様の方から一方的に女の子孫を遣わし、そのように約束が与えられました。女の子孫が来たならば、蛇の頭を踏みくだく。この蛇はただの動物の蛇では、ありません。元々は神様が御使いとして造られた、そのような天使の中の1人です。その1人の天使がとても美しく賢かったために、私も神のようになろう。心の中でそのように高ぶりました。神様から作られた被造物である天使が、その自分の領域を超えてしまったということです。聖書でそれを罪と言います。

 

私も、神のように。で、実際にそのように心の中で、悪魔が罪を犯したその瞬間、御使いは天から落とされました。それで古い蛇、悪魔、人間を惑わすもの、サタン。神に敵対するもの、そのような存在となりました。3分の1の御使いがその堕落した天使、悪魔に追従して、悪霊、汚れた霊、占いの霊、病いの霊。様々な形で人間の中に入ったり出たりする、そのような存在となりました。

 

それで神様は、そのような存在から私たちを解放する、まことの王であるキリストを遣わす。それが神様の約束でした。救い主がお生まれになりました。この方こそ、主キリストです。キリストというこの言葉の意味は、油注がれたもの。油注がれた方、という意味です。神様は王を選んで、王を立てる時にその頭に、油を注ぎます。つまり人間が選んで立てたのではなくて、神様の方で選んで立てた王である、ということです。

 

で、そのようにして神様が王を立てた、ということは、旧約時代からイスラエルの支配者となるものが出ることは、ベツレヘムから出る、ということは、もう神様が定めたことだとあります。そしてその方がこの世に来られた時に、ユダヤ人の王となってお生まれになった方はどこにいらっしゃるのですか、と。王が生まれたということを聞いて、東の方から3人の博士たちがエルサレムに訪れました。で、その時に学者たちも、もうそれはベツレヘムで生まれるということは決まっています、と答えました。

 

"そこで、王は、民の祭司長たち、学者たちをみな集めて、キリストはどこで生まれるのかと問いただした。

彼らは王に言った。「ユダヤベツレヘムです。預言者によってこう書かれているからです。"

マタイの福音書 2章4~5節

 

で、ベツレヘムで生まれた王のところに、その3人の博士たちは行って、黄金、乳香、没薬を捧げました。その3人の博士が捧げた方が、その名はイエス、とつけられた方です。イエスと、その名前がつけられた方が、このキリストとして、まことの王として、この世の王であり、私たち全ての人間をとりこにしている、捕虜にしているサタンから解放する、まことの王でいらっしゃる、ってことです。それで3人の博士は礼拝を捧げました。完全にイエス様をキリストとして、受け入れたということは、そこから解放されるということです。悪魔の支配、悪霊の支配から、完全な解放がまことの王がしてくださる1つの働きです。

 

2つ目に、キリストの働きはまことの大祭司です。まことの大祭司の働きは、十字架の上で罪のない体。全ての人は罪を持って生まれてきますから、どんなに十字架で血を流したからといって、その血は何の働きもすることができません。

 

しかし罪のない人、女の子孫として来られた方が、罪のない体から血を流しました。血が流されなければ、罪の許しがありませんから、十字の上で流されたその血が、私たちの全ての罪を許す、その働きがあります。それで、その名をイエスとつけなさい、と。独り子が、この世に来られた時に、その名前はイエスとつけられました。この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です。大祭司として、罪の許しを与えてくださる方です。あなたの罪は許されました、とそのように宣言してくださいます。

 

"イエスは彼らの信仰を見て、中風の人に、「子よ。あなたの罪は赦されました」と言われた。"

マルコの福音書 2章5節

 

それで、このイエス様をキリストとして私たちが受け入れること、それが本当のクリスマスです。素晴らしい喜びの知らせを伝えに来たのです、とあります。それはあなた方のために、とあります。今日あなたがたのために、この知らせを聞いて皆さんはどのように感じるのでしょうか。あまり私とは関係がない、そのように感じる人たちもいらっしゃると思います。あ、これは私にとって、そんなに素晴らしい喜びの知らせでもなさそう、そういう風に思われる方も、いらっしゃると思います。

 

しかし中には、あ、本当にこれは私にとって素晴らしい知らせだ、なぜならば私は本当に罪人であり、私は本当にこの世の流れに流されて、このまま行けば私は死んだ後、どこに行くのかわからない。そのように恐れや不安を抱いていらっしゃる方も、いらっしゃると思います。そのような方にとっては、私はこの素晴らしい喜びを、私のものとしたい、とそのような信仰のようなものが、その人の心の中に与えられます。

 

すると、イエス様はその人の心の扉を叩いてくださいます。誰でも、その声を聞いて、十字架で死なれたイエス様は、3日目に死者の中から蘇られて、今も生きておられます。そしてこの素晴らしい喜びの知らせが、その人に届いた時に、心の扉を叩いておられます。誰でもその声を聞いて戸を開けるなら、とイエス様はおっしゃいました。私はその人の中に入ってともに食事をする。食事をするということは、親しい関係になるっていうことです。どれぐらい親しい関係になるのでしょうか。私は世の終わりまで、いつもあなたと共にいます。そのような関係が始まるということです。

 

"イエスは彼らの信仰を見て、中風の人に、「子よ。あなたの罪は赦されました」と言われた。"

マルコの福音書 2章5節

 

それで、この方を信じた人、その名を受け入れた人。つまり、イエス様の名前はキリストである。キリストとして王、預言者、大祭司。この3つの働きを、十字架の上で成し遂げてくださった方である、ということを信じて受け入れるなら、素晴らしい喜びが、その人の中から生まれるようになります。この喜びというのは、今まで世が与えてくれるような、何か儲かったとか、おいしかったとか、うまくいったとか、そういうような喜びではありません。世の中のことが、たとえ思うように行かなかったとしても、これは神様から与えられる喜びですから、救いの喜びです。

 

"わたしは、あなたがたに平安を残します。わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います。あなたがたは心を騒がしてはなりません。恐れてはなりません。"

ヨハネ福音書 14章27節

 

それで、今日あなた方のために救い主が、お生まれになりました。どこに生まれるのでしょうか。皆さんの心の中にということです。心の中に救い主が来てくださったならば、「いつも喜んでいなさい」という、その御言葉が、その人に与えられます。つまりまことの預言者として、神様の言葉がその人の中に入ります。それが救われたという証拠です。

 

"いつも喜んでいなさい。"

テサロニケ人への手紙 第一 5章16節

 

神様の言葉は、永遠にいつまでも変わることがありません。ですから、あの時救われたけれども、また救いから漏れてしまった。そのようなことは一切ありません。1度イエス様を信じて心の中に受け入れたとするならば、その救いは永遠です。なぜならば、イエス・キリストは昨日も今日も、いつまでも変わることはありません。いちど心の中に入ってくださったイエス様は、いつまでも共にいてくださり、そして神の国が自分の中に来ているということを味わうことができるようになります。

 

"イエス・キリストは、きのうもきょうも、いつまでも、同じです。"

ヘブル人への手紙 13章8節

 

それで、素晴らしい喜びの知らせですということです。人間がいろんな情報いろんな知らせを聞くでしょう。けれども、この素晴らしい知らせ以上の知らせ、グッドニュースというのは、世の中にはどこにもありません。ですから、これ以上の良い知らせというのは人間には与えられていませんから、この1番良い知らせを、本当にこれは私のための知らせだと信じて受け入れること。これが神様から恵みが与えられる、ってことです。

 

それで最後に、今日この素晴らしい喜びの知らせを自分のものにしたいと、そのように思われた方がいらっしゃったならば、祈りによって自分のものとすることができますから、私が代わりにイエス様を心の中に迎える、その祈りを捧げます。そして最後にアーメンと言いますから、アーメンという言葉の意味は、同意しますということです。私が祈った祈りに対して私も同じです、という、そういう意味ですから、共に礼拝を捧げていらっしゃる方々でまだ一度も、心の中にイエス様をキリストとして受け入れたことがない。そのような方々がいらっしゃったならば、最後にアーメン、とそのように告白していただきたいと思います。それではお祈りします。

 

神様、私は罪人です。今まで犯してきた全ての罪を許してください。今日イエス様を、私は信じて受け入れたいと思います。イエス様が私のために、十字架で死んでくださったことを信じます。3日目に、死者の中から蘇られたことを信じます。いま私の心を開いて、イエス様をキリストとして受け入れます。イエス様どうぞ、この時間、私の心の中にお入りください。そしてイエス様が王となって、これからの私の全ての人生を導いてください。神様が私の全ての罪を許してくださったことを感謝いたします。サタンとまた、もろもろの悪霊から解放されたことを感謝いたします。これからの生涯、神様のご計画が私の生涯になされていきますように。イエス様の名前によって、感謝と共にお祈りいたします、アーメン。

 

聖書に、この方を受け入れた人、その名を信じた人には、神の子供となる特権が与えられた、とあります。それまでは悪魔の子供でした。しかし今、イエス様を心の中に信じて受け入れたその瞬間から、神様の子供という身分と、特権の中に入れられました。神様の御言葉が必ず、受け入れたその人の中に臨むようになります。その祝福を味わう1週間となりますように、主の御名で祝福をお祈りいたします。

 

父なる神様、今日共にクリスマス礼拝をお捧げいたしました。天には栄光が神にあるように、地には平和が、御心に叶う人々にあるように。今日神様の御心に叶ってイエス様を受け入れた人々に、神との平和が訪れますように。神との平和を味わう1週間となりますように。神の平和を伝える伝道者となりますように。イエス様の名前によってお祈りいたします。アーメン。

 

"しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。"

ヨハネ福音書 1章12節

 

2023年1月22日 主日礼拝メッセージ(+教会からのお知らせ)

1部メッセージ『干からびた骨に預言せよ』(エゼ37:1-10)

 


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2部メッセージ『のがれの町ー教会』(民数35:9-15)

 


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