2024年11月24日 主日礼拝メッセージ『至聖所への道』(ヘブル10:19-25)
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"こういうわけですから、兄弟たち。私たちは、イエスの血によって、大胆にまことの聖所に入ることができるのです。
イエスはご自分の肉体という垂れ幕を通して、私たちのためにこの新しい生ける道を設けてくださったのです。
また、私たちには、神の家をつかさどる、この偉大な祭司があります。
そのようなわけで、私たちは、心に血の注ぎを受けて邪悪な良心をきよめられ、からだをきよい水で洗われたのですから、全き信仰をもって、真心から神に近づこうではありませんか。
約束された方は真実な方ですから、私たちは動揺しないで、しっかりと希望を告白しようではありませんか。
また、互いに勧め合って、愛と善行を促すように注意し合おうではありませんか。
ある人々のように、いっしょに集まることをやめたりしないで、かえって励まし合い、かの日が近づいているのを見て、ますますそうしようではありませんか。"
ヘブル人への手紙 10章19~25節
「ヘブル人への手紙」を書いた記者は、人間は一度死ぬことと死んだ後にさばきを受けることが定まっているとそのように記しました。全ての人は、先ほど祈られたように生まれながら神の御怒りを受けるべき、そういう存在ですから、私たちが受けるべき神の怒りを、代わりにキリストが十字架で負ってくださいました。
その契約を信じた人には、神の怒り、神のさばきは臨みません。再びキリストが来られるというのが約束です。一度目は罪を代わりに負ってくださるために死なれましたけれども、二度目に来るのは、私たちを完全な栄光、栄光から栄光へと主と同じ姿に変えてくださる、「かの日が近づいている」というのは、キリストの二度目に来られる再臨の日が近づいているということです。
ところがこのヘブル人への手紙を読むその人たちは、どのようなことがあったのか、もちろん一人一人違うかもしれませんけれども、動揺するようなことが起こったために一緒に集まることをやめてしまっているということです。それでこの手紙を書いた記者は、一緒に集まることをやめたりしないでと、そのように警告を与えました。
それは昔だけではなく今も現実に起こっていることです。昨日ある教会で任職式がありましたので、そこに行きましたけれども、そこでメッセージをされた牧師がこのような話をされました。今まで30数年牧会をしていて本当にたくさんの長老、かんし、按手執事をその手を置いて立てましたけれども、一体そこで建てられた職者たちは今どこにいるんですかと、冒頭でそのようなことを語られましたから、かなり衝撃を受けました。
それだけではなく最近はレムナントたちも一緒に集まることをやめて教会から、礼拝から離れてしまっているという、そういう知らせも聞いたりします。サタンは麦のようにふるいにかけることを願って、そして神様が許可されました。ですから、今そのようなことが実際に起こっています。
fこのような時に一番重要なことは何でしょうか。それはただ一つだけです。信仰の創始者、誰が信仰を始められたのでしょうか。信仰の完成者、誰が私たちの信仰を完成してくださるでしょうか。それはただイエス様だけですから、イエスから目を離さないでいなさい。これがただ一つの答えです。
つまり現実の問題というものがあまりにも大きいと、それに心と目が奪われてしまって、イエス様から目を離してしまっているということです。それゆえにイエス様から目を離すと、それはもう教会から、イエス様は教会の頭ですから、教会から離れよう、一緒に集まることはもうやめようと必然的にそのようになるしかありません。イエス様から目を離さない人は、どんなことが起こったとしてもそれは関係なく、共に集まって礼拝を捧げることができるようになります。
メッセージをこのようにするその前に、ほとんど必ずと言ってもいいぐらい、そのみことばと同じようなことがメッセージをするものに与えられます。つまり動揺するようなことが起こるということです。
先週名古屋で牧会をしていた時のその信徒の方々に出会って、本当にその幸いな交わりが与えられたために、もう喜びと感謝で名古屋から戻ってきました。その帰る途中ですけれども悪い知らせが入りました。その悪い知らせを聞いたその瞬間、胃がものすごく痛くなってしまいました。私はあまり悪い知らせを聞いても今までそんなに体に調子が不調をきたすというようなことは一度もありませんでしたので、生まれて初めて悪い知らせを聞いて胃が痛くなって、あまりにも痛いので病院に行こうかなとそういう風に考えました。
その時にイザヤ書53章のキリスト。「キリストは私たちの病を負い、痛みを担った」というそのみことばを握って祈りました。しばらく祈っている中で胃の痛みが消え去ってきました。本当に悪い知らせというのは人々のからだまでそのように苦しめて痛めつけるものだと、しかし良い知らせ、良い知らせというのは何でしょうか。それは福音です。福音は死んでいるたましいを生き返らせて、心と思いと考えを癒し、肉体を健やかなものにすることができる、それが良い知らせですから、福音は神の力です。本当に私はただ福音だけ、キリストだけを伝えなければいけないと改めてそのように思わせられました。
ですから今日も皆さんはいろんな出来事が起こっているでしょうけれども、もう悪い知らせというのはもう聞き流してしまって、そして良い知らせは心に釘のように刻印されて、そしてキリストに深く根をおろす、そのような礼拝となるように祝福をお祈りいたします。
まず第一番目に、全ての人間は霊的な問題を持って毎日生活しています。霊的な問題というのは目に見えない問題です。心も精神もあっても目に見えません。たましい、霊があっても目に見えません。そのようなところに問題が起こっているということです。
元々の人間は神のことばによって造られました。神様のことばによって造られたということは、ヘブル人への手紙の11章の3節、このところに「目に見えるものから目に見えるものが造られたのではないことを悟るのです」とあります。目に見えるから目に見える人間が造られるということはありえないことです。目に見えない神のことばによって人間が造られたということを悟るのです。信仰によって悟る以外にありません。
元々の人間は創世記の1章の27節、神のかたちに似たものとして造られ、そして2章の7節、鼻からいのちの息、神の霊が吹き込まれたために神様を知り、神様と共に生きるようになりました。それで人間が置かれたエデンの園には全てのものが備わっていましたから、何の問題もありませんでした。そして万物を支配するように神様は人間を造られましたから、天と地、その中にある全てのものを最初の人間は治める、そのような生活をしていました。これが創造の目的です。
ところがそのように造られた人間ですけれども、神様のことばに対して不信仰しました。神様のことばを信じなかったということは、創世記の2章の17節「善悪の知識の木の実から取って食べたら必ず死ぬ」という、このことばを信じなかったということです。
それはローマ人への手紙の5章の12節、一人の人アダムがしたことです。この一人の人アダムによって罪が入り、そして罪が全人類に広がりました。それでローマ人への手紙の3章の23節「全ての人は罪を犯した」となります。全ての人が罪を犯した、それは悪魔のことばを信じたからです。悪魔のことばを信じるということは、ものすごく恐ろしいことです。なぜでしょうか。悪魔というのは偽りの父であり、人殺しの父であり、そしてむさぼり、貪欲、そのような父であるからです。
それで「あなたがたの父である悪魔」、ヨハネの福音書の8章の44節、悪魔が自分の父ですから当然霊的な問題を抱えているというのは、それは当然のことです。生まれた時からこのような霊的な問題を抱えて生まれてきますから、実際に物心がついたらすることといえば、騙すこと、憎むこと、あれも欲しい、これも欲しいと、そのようになる以外にありません。
それで二番目に、このような霊的な問題を完全に解決してくださる方、その方がキリストです。キリストはどのような方でしょうか。キリストは神であると、神であられる方とあります。キリストは人間ではないということです。ピリピ人への手紙の2章の6節、神であられるために、イエス様は「あなたは生ける神の御子、キリスト」ですから御子、キリスト、御子の前で全ての御使いは御子を拝めと、そのようにヘブル人への手紙の1章の6節にあります。全ての御使いにひざまずき、そして全ての御使いが礼拝を捧げ、賛美を捧げるべき、そのような方がキリストでいらっしゃるということです。
ところが、そのキリストが人となって来られました。ヘブル人への手紙の10章の5節「あなたは私のためにからだを造ってくださいました」。なぜキリストがからだを造っていただかなければならないのでしょうか。それはそのからだから血を流さなければならないからです。ヘブル人への手紙の9章の22節「血が流されなければ罪の赦しがない」。血が流されたので罪の赦しの道が開かれました。
どこで開かれたのでしょうか。それが十字架でした。ヘブル人への手紙の10章の20節、キリストがカルバリの十字架で木にかけられた時に、どのようなことが起こったのでしょうか。幕屋、神殿というのを上から見るとこのようになっています。途中に神殿の幕、このへだての幕がかかっていて、奥が至聖所です。手前、入口の方が聖所です。反対に誤解している方もいますけれども、奥が至聖所です。
ヘブル人への手紙の10章の20節に書かれているみことばは「イエスはご自分の肉体という垂れ幕を通して、私たちのためにこの新しい生ける道を設けてくださったのです。このみことばが、キリストが十字架につけられた時に、ここから入って御座のひな形ですね。右側にはパンの机、「私はいのちのパンです」とイエス様がおっしゃったように永遠のいのちがあり、そして左側には燭台、光。まことの光。奥にあるのが契約の箱、神のことばです。
キリストが十字架で血を流された、その瞬間にこのへだての幕、ご自分の肉体をこの幕に例えているわけです。自分の肉体が裂かれた、殺された、自分から命を捨てたということは、今まで大祭司でなければ一年に一回。入ることができないその至聖所に誰でも入ることができる、生ける新しい道が開かれましたということです。これが全ての問題の解決ということです。
それで、このことを本当に全ての問題の解決だと、そのように思えるには何が必要でしょうか。それは全き信仰ということです。不信仰な人にはここでイエス様が全部を解決してくださった、永遠のいのちが与えられ、まことの光が与えられ、神のことばが自分に与えられたということを聞いても、全き信仰がなければ、「ああ、私の問題は終わっていない」となります。
それでまず全き信仰を持つためには偉大な大祭司の働きがあります。どのような働きがなされたのでしょうか。それはイエスの血によってとあります。まことの大祭司であるイエス様は自分のからだから血を十字架の上で流されました。この血が流されたら、どんなことが起こるのでしょうか。
人間の中にある邪悪な良心というものがあります。その邪悪な良心が清められ、と。良心とあるのですから良い心なのに、なぜ邪悪なという言葉がつくのでしょうか。元々神様はそのような良心、それを人間に創造の時点で与えられました。本当にその時に与えられたのは紛れもない良心でした。そこには罪とか汚れというものが一つもありませんでした。しかし悪魔に騙されて神様から離れてしまって罪が入ってきた時に、その今まであった良心というものが邪悪なものとなってしまったということです。
人の心は本当に陰険で、それは治らないとあります。自分でどんなに悔い改めて自分のその悪い心を清くしよう、どんなにそのようにもがいても、絶対に自分の努力であるとか何らかの宗教というものでは、良心が清くなることがありません。どうすればいいのでしょうか。みことばで言うと「邪悪な良心を心に血の注ぎを受けて」とあります。その心に血の注ぎを受けた時に清くなる。だからいつもいつも私はキリストの十字架の血がなければ、私の心というのはいつでも邪悪な前のものに戻ってしまいます、ということです。それほど人間の心というのは邪悪な状態になってしまっています。
それでこの良心が清められるために、どんなにその動物のいけにえですね、その血のいけにえを捧げたとしても、むしろ反対に罪の記憶、罪の意識が戻ってしまうために、古い契約ではこの邪悪な良心は清められることができません。動物の血はこの罪を取り除くことができないからです。しかし罪のないからだ、女の子孫として来られたキリストがそのからだから血を流した時に、その血は私たちの邪悪な良心に注がれて清くしてくださる。それが神様がなさってくださる偉大な大祭司であるキリストの働きです。
あ、私の罪はもう全部赦されただけではなく、神様の方で私の罪や不法を思い出さない、完全に忘れてしまってくださっている。そうすれば、本当に私はもう罪に定められることはないんだと、今まで罪に罪を重ねてきたそのような人が、本当にこの血の力を知った時に、そのたましい、心とたましいに安らぎが来ます。罪に定められないということ、それが大祭司の働きです。
それから私たちのためには偉大な王がおられます。ヘブル人への手紙の2章の14節と15節で、この方は私たちのために血を流してくださいました。イエスの血によって何が起こったのでしょうか。この世の王、邪悪な王から完全に自由と解放を与えてくださったということです。どれほどこの世の王は邪悪でしょうか。自分だけが滅びる、また諸々の悪霊だけが滅びればいいんですけれども、しかし一緒に神様によって造られた人間をハデスの門に入れて、そして火の池に共に滅びるように、そのように働いているのがサタン、悪魔ですから、どれほど邪悪な存在かわかりません。
そして私たちのためには偉大な預言者がいらっしゃいます。この偉大な預言者である方はやはり同じようにイエス様ですから、その血を流されました。先ほど言いましたように、この血が流された時にへだての幕が上から下まで真二つに裂かれました。裂かれたならばどこに入るのでしょうか。至聖所に入ります。至聖所にあるのは契約の箱です。契約の箱の中にあるのが神のことばですから、今まで霊的な問題が人間に起こったということは、神のことば、エデンの契約から人間が離れたということです。全ての問題の始まりは神のことばから離れたということですから、再び神のことばのところに人間が戻ったならば、全ての問題は解決するということです。
霊的な問題の原因が偉大な大祭司、王、預言者の働きによって、完全に終わりました。ですから、神様のみことばが皆さんに臨むようになります。このために必要なものが、この全き信仰を持ってということです。全き信仰というのはどういう信仰でしょうか。この先ほどの本文で言いますと、約束された方は真実な方という信仰です。ここで約束した悪魔というのは偽りの父、嘘つきです。ですから悪魔のことばを握った人は皆滅びるしかありません。
しかし、まことに約束してくださった方は真実な方であると信じるということが、全き信仰ということです。そこには不信仰な余地がどこにもありません。そのようにして約束してくださった方、約束された方は真実な方ですからという信仰を持った人は誰でしょうか。それはアブラハムの妻サラです。サラが約束された方は真実な方だと、そのように信じました。自分のからだを見れば100%子どもは生めないというそういう状態です。しかし自分を見れば不信仰になりますけれども、あるいは周りを見れば不信仰になりますけれども、しかし約束された方キリストを見たならば信仰が与えられます。まことの大祭司、王、預言者として十字架の上で私の霊的な問題を全て終わらせてくださった。
このように全き信仰を持って真心から神様の元に近づいたならば、どのような御声が耳に届いてくるのでしょうか。それはヨハネの19章の30節、全ての問題は終わったということです。これら全ての問題はキリストが十字架の上で完全に完了したと、そのことばが聞こえてくるようになります。すると聞こえてきた皆さんはどういうのでしょうか。アーメンということばだけです。アーメンと言って神様に栄光を捧げるのです。いや私の問題はまだ終わってません、これもありますあれもあります。悪魔はそのように現実の問題を皆さんの目の前に突きつけるでしょう。ほとんどのクリスチャンはその現実の問題で不信仰になってしまっています。
しかし、例えどんな心を動揺させるようなことが起こったとしても、約束してくださった方は真実な方ということが信じられたならば、今まで動揺していたことが心が岩のような信仰、全くゆすぶられることのないそのようになりますから、全き信仰を持って御座の御前に出ようではありませんか。出たら折りに叶う助けとなる十分な恵みを与えてくださいます。今日もこのようにして神様のことばが皆さんに届けられました。あとは皆さんが全き信仰を持って受け入れるかどうかということです。信仰のバトンが皆さんに渡されましたから、それをアーメンと言って皆さんが受け取ったならば神様に栄光が捧げられます。そのような皆さんを一人一人となりますように主の御名で祝福をお祈りいたします。
父なる神様、恵みを感謝をいたします。神のことばは生きていて両刃の剣のように私たちの霊とたましいにまで届くことを感謝をいたします。どうかこのみことばが私たち一人一人の霊とたましいに届いて、全き信仰を持って今日神様の御前に出て、心も思いも考えも癒されて、からだも健やかになる神様の力、福音の力を味わうことができますように。イエス様の御名によってお祈りいたします。アーメン。