新宿キリスト教会ブログ

今まで一度も福音を聞いたことのない方へ

【書き起こし】2024年12月8日 主日礼拝メッセージ『神のことばであるキリスト』(ヘブル11:1-3)

2024年12月8日 主日礼拝メッセージ『神のことばであるキリスト』(ヘブル11:1-3)

https://www.youtube.com/watch?v=oh1KAm20QfE

 

"信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。

昔の人々はこの信仰によって称賛されました。

信仰によって、私たちは、この世界が神のことばで造られたことを悟り、したがって、見えるものが目に見えるものからできたのではないことを悟るのです。"

ヘブル人への手紙 11章1~3節

 

クリスマスが近づいてまいりましたけれども、皆さんはクリスマスというとどのようなイメージを持たれているのでしょうか。一人一人聞くと興味深い答えが返ってくるのではないかと思いますけれども、私個人は光というのがクリスマスのイメージです。

 

先日妻の実家の方に行った時に、私たちが来るということで玄関のイルミネーションをつけてくださっていましたけれども、暗闇の中で本当にその光を見るとほっとするような気持ちになります。人間の心というものを見ると、エレミヤという預言者は人の心は陰険だと、そのように表現しました。このヘブル人への手紙を書いた記者は、その心良心というのは非常に邪悪だなと、そのように表現していました。

 

自分の心は良心だから良いものだと多くの人は誤解していますけれども、本当にその人間の心というものを見ると、その良心と思えるものまでも邪悪な状態です。パウロはその人間の心を闇、暗闇とそのように表現しました。人間の心が闇であるために本能的に光に私たちは憧れます。光を見るとやはり希望が与えられたり、ほっとしたりします。

 

そのような意味で私たちは神様の与えてくださる本当の光がなければ、偽物の光にいつも騙されてしまいます。すべての人を照らすまことの光であるキリストがこの世に来られました。それでイエス様をキリストとして信じるその信仰を神様は義と認めてくださいました。神様から義と認められた人は神との平和を持っているのです。

 

以前は敵でしたけれども、以前は偶像を愛するようなそういう邪悪な人間でしたけれども、今はキリストにあって光となりました。本当にこれはただ神様の恵みとしか言いようがないことです。そのような私たちですから、この信仰によって義と認められたこの確信を投げ捨ててはいけない。これがヘブル人への手紙の記者の書いたメッセージでした。

 

つまり当時の人たちはあまりにも激しい迫害であるとか問題苦しみが来たために、今まではなんとか耐えていた、持っていたその確信を投げ捨ててしまう、そのような信徒の人たちが実際に起こってしまったということです。今もサタンは働いて私たちの信仰に確信が与えられないように邪魔をしています。不信仰にさせています。

 

ですから、まず第1番目に信仰の確信が必要です。ヘブル人への手紙の11章の1節です。私たちの信仰というのは何でしょうか。この信仰はイエス様はキリストであるという信仰です。マタイの福音書の16章の16節、「あなたは生ける神の御子キリストです」。これが信仰です。これが私たちの土台となります。

 

このように土台は持っていたとしても、しかしゆすぶられるということがあります。いま礼拝が始まる前に隣にツリーが飾ってありますけれども、このツリーの1つの飾りがなぜ揺れているんだろうとしばらく眺めていました。その1つは大きく揺れていますけれども、また近くにある飾りも小さいですけれども、しかし揺れています。

 

下の方を見ると下から送風機で風が送られていますから、その風が送られているところにある飾りだけが揺れています。何を意味しているのでしょうか。「サタンもあなた方を麦のようにふるいにかけることを願って」と神様に許されたとありました。

 

それでペテロは「あなたは生ける神の御子キリストです」とこの信仰を告白をしたのにも関わらず、揺さぶられてしまいました。どれほどその信仰が揺さぶられたのでしょうか。なくなってしまったと思えるほどです。「私はイエス様を知りません。私とイエス様とは何の関係もありません」とまで言い切ってしまったそのペテロでした。

 

それでイエス様は「私はあなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました」と言われました。もし今日もこのイエス様はキリストというこの信仰を土台としているということが確かであるならば、それは背後でイエス様が御座におられて今も私たちのために取りなしていてくださるからです。

 

私たちは自分の力でこの信仰を守ろうとどんなに頑張ったとしても守ることはできません。しかしそのような弱い私たちですけれども、御座におられるキリストが信仰がなくならないように私たちのために祈ってくださって、そしてあなたが立ち直ったならば、あなたはまだ揺れているそのような信仰者がいるので、そのような人たちを助けてあげなさいと、そのように言われました。

 

本当に助けることができる人は何でしょうか。それは「すべての問題は完了した」ヨハネ福音書の19章の30節、本当にこのみことばを信じた人、本当にイエス様はキリストとして十字架の上で私の問題をすべて終わらせてくださったと、そのように信じている人だけが揺れている人を助けることができます。 

 

自分が揺れていたならば、その揺れている人は他の揺れている人を助けることは難しいことです。しかしイエス様は「私はこの岩の上に私の教会を立てます」と言われました。岩の上にこの信仰が立てられたならば、どういう信仰になるのでしょうか。

 

創世記の3章の1節から6節、これは神様から離れたということです。神様から離れるということは具体的には神様のことばから離れたということです。この問題に対してヘブル人への手紙の10章の20節、キリストはご自身の肉体を引き裂いて十字架の上で垂れ幕として裂かれたことによって、生けるまことの神に出会う道を開いてくださいました。隔ての幕が真っ二つに裂かれたことによって至聖所に入るその道が開かれました。至聖所に入った人は神のことばがそこにあることが発見できます。ですから神様から離れたという問題が解決します。

 

それからローマ人への手紙の3章の23節、すべての人は神様に対して契約を破りましたから違反を犯しています。それを罪と言います。その罪の問題に対してヘブル人への手紙の9章の12節、キリストはただ一度その肉体から血を流すことによって永遠のあがないを成し遂げてくださいました。すべての罪の問題が解決しました。

 

そしてもう1つは私たちは生まれた時からすべての人は悪魔の子どもという身分であり、いつも悪魔に制せられてそのような状態の中で生きていました。意識して死が怖いと思っている人もいますし、もう潜在意識の中で無意識の中でやはり人間の中には死が怖いと思います。それは悪魔という死の力を持つものがいますから。ヘブル人への手紙の2章の14節で、その死によって悪魔という死の力を持つもの、この世を支配するものを完全に滅ぼされました。

 

これがイエス様がキリストとして十字架の上で成し遂げられた3つの職分です。預言者、大祭司、王の働きです。この3つの働きが全て終わったと言われました。本当にこのみことばが自分の中に刻印されて、キリストに根を下ろしている状態であれば、どんなことが起こったとしても決して岩のように揺れることはありません。

 

ということはその人はいつまでも残る財産を持っています。ヘブル人への手紙の10章の34節で、地上にももちろん財産を持っている人たちはたくさんいるでしょうけれども、どんなにたくさんの土地や財産、お金があったとしても、それはいつまでも残るそのようなものではありません。

 

いつまでも残る財産は何でしょうか。キリストを信じる信仰と、キリストが再び来られるという希望、そしてキリストが私のために十字架の上で血を流して死んでくださったというこの愛を知ったということです。いつまでも残るものは信仰と希望と愛、この3つだけです。他のものは全て古びて滅びていってしまいます。

 

私たちがこの目で見ている世界というのは神様によって造られた創造された世界です。創造された世界はやがて終わる時が来ます。しかしいつまでも残るものというものがあります。それで人間はいつまでも残るものを握らなければ本当に虚しい一生を送る以外にありません。悪魔に騙されてこの世の栄華を求めて快楽を求め、多くの人たちは今も生きていますけれども、クリスマスを迎えるというそのクリスマス自体ももう変質してしまって、聖書で言われているクリスマスを知っている人はもうほとんど日本にはいません。

 

そのような状態ですから、その人たちはいつまでも残る財産を手に入れていません。ですから神様の恵みですけれども、イエス様はキリストというこの信仰が与えられた、このことにまさるものは私たちにはどこにもありませんから、この確信が必要になります。

 

2番目に信仰には必ず証しが伴います。ヘブル人への手紙の11章の2節、「昔の人々はこの信仰によって称賛されました」。称賛という言葉は別の訳では証された、とあります。この証というのは自分の証というものではそれは確実絶対的なものではありません。絶対的な証は神様が証ししてくださることです。ヘブル人への手紙の11章の4節、神様はアベルが捧げた捧げ物を良い捧げ物だとそのように証しをしてくださったとあります。

 

アベルが捧げた捧げ物は何でしょうか。それは血のいけにえです。神様に受け入れられるそのいけにえ、捧げ物というのはこの血のいけにえが捧げられなければなりません。それから信仰によって証しがされます。ヘブル人への手紙の11章の39節、「この人々は皆その信仰によって証しされましたが、約束されたものは得ませんでした」。

 

旧約時代の一人一人の信仰者は皆信仰を持って、その信仰が証しされていました。しかし神様はまだ与えようと思うものは先に準備しておられるので、旧約聖書の信仰によって生きた人たちはまだその約束されたものを手にしていないということです。そしてそれにも関わらず、旧約時代でも義人は信仰によって生きた人たちでした。 

 

ガラテヤ人への手紙2章4節、行いによって神様から義と認められる人は一人もいませんから、義人はただ信仰によって生きるのです。この信仰によって生きた人は、神の御霊が証ししてくださいます。どういうことでしょうか。自分は義人ではない不義な人間だということを認めて、そして義なる方であるキリストを信じて心の中に受け入れた時に、その人は悪魔の子どもから神の子どもに生まれ変わります。

 

子どもであるならば何でしょうか。ローマ人への手紙8章16節、子どもであるということは親の全ての財産を相続する相続人です。いつまでも残る財産、御座に蓄えられているそのような財産を相続する、それが子どもの身分特権です。神の子どもとされたということの証拠は何でしょうか。何を相続するのでしょうか。一つは苦難を相続するとあります、それからもう一つは栄光を相続します。

 

苦難とは何でしょうか。それは十字架です。キリストがこの苦しみを負われました。キリストを信じる皆さんの生涯の中にも「私についてきたいと思うならば、自分を捨てて十字架を負ってそしてついてきなさい」とイエス様がおっしゃいました。十字架を負わないでイエス様についていける人、その人は一人もいないということです。必ずその人がイエス様を信じているということは、十字架を負って今日も歩んでいるということです。

 

そしてその人に御座の栄光が与えられる。今地上では苦しみが激しいかのように思いますけれども、しかしキリストが蘇られて天に帰られて栄光とほまれの冠を受けておられるように、信じているキリストを信じている皆さん一人一人にもこの栄光が与えられるということです。

 

栄光を受けることができなくなった原因はこれとこれです。罪と悪魔の支配です。この二つから解放されているということは、神の栄光を受けることができるそのような状態にもう皆さんは変えられているので、今大胆に恵みの御座に出ようではありませんか。そのように死んだ後、御座に行くということではなくて、生きているこの時もまた大胆に恵みを受けるために御座に出ることが許されています。私たちはキリストと共に共同の相続人とされたとあります。これが信仰によって生きている人の状態です。

 

それから三番目に、私たちが信じる信仰というのは何を信じるのでしょうか。それは神のことばである、神のことばであるキリストです。11章3節、信仰によって私たちはこの世界が神のことばで造られたことを悟り、従って見えるものが目に見えるものからできたのではないことを悟るのです。

 

神のことばがまず「光があれ」とそのように言われました。創世記1章3節、すると光が造られました。全てが闇でしたけれども、闇の中に「光があれ」と神がそのように仰せられた時に光が造られました。

 

それからヘブル人への手紙1章3節、この造られたこの世界を神様は毎日保っておられる。神のことばによって今もこの世界はただ神様は造って造りっぱなしというようなことではなく、日々神様がみことばによって保っておられます。それから神のことばによって私たちに恵みのゆえに救いが与えられます。ヘブル人への手紙4章12節、神のことばは生きていて力があり、その神の生きた力が人間の一番深いそのたましいにまで入ってきます。すると死んでいたたましいがいのちに変えられます。死からいのちにたましいが移されます。それを救いと言います。信仰の結果であるたましいの救いを得ているのです。

 

信仰でこのたましいが救われていきます。どのようにその信仰が与えられるのでしょうか。それは福音の光がその闇の心の中に照らされるということです。人間の心の中に神様のみことばが伝えられます。「イエス様はキリストです」このみことばを聞いて、私たちは神様から離れて罪の中に死んで、この世の王である悪魔に支配されているということを悟るようになります。

 

神様のみことばが臨まなければ、この中にいるということは闇の中にいるということですから、みことばの光がその心の中に届かなければ闇のままです。このような状態にいたとしても、自分がこの中にいるということさえもわからない、そのような状態で全ての人はこの世に生まれてきます。

 

ある日福音を聞いた時に、その福音が光となって闇の心の中に照らされるようになります。それで照らされた時に、キリストはこの問題を十字架の上で終わらせてくださって、神様に会う道を開いてくださり、罪が赦される道が与えられ、悪魔から解放されるその道がキリストであるという、この福音を聞いた時に「私は今まで本当に的外れな生き方をしていた」ということを悟ります。悟った人は自分の人生の向きを変えようと思います。

 

今まで的外れだったわけですから、その方向を十字架に向けようとします。それを悔い改めと言います。罪を1個1個告白することが悔い改めであるかのように考える人もいますけれども、本質的にその悔い改めということは向きが変わるということです。

 

罪をどんなに告白して悔い改めても、自分の向きが変わらないという人がいます。今までと同じように闇の中で全く向きが変わらないで「私は罪人です。私は盗みました。嘘をつきました」と、人に対していろいろ罪の告白はいっぱいあるでしょうけれども、どんなに罪を告白してもその向きが変わらないということは同じ状態にいるということです。

 

ところが光が、福音の光がその心に照らされた時に、その人のその状態が闇を背にして今度は光の方へと向きを変えようとします。それが信仰ということです。必ず光を前にして光の方に向かっていこうと、それが信仰です。

 

そのようにしてイエス様をキリストとして信じて心の中に受け入れた、その時に私はキリストのことばによって生きるようになります。ローマ人への手紙の10章の17節、信仰は聞くことから始まり、聞くことはキリストについてのことば。それによって生きるものとなります。

 

それゆえに毎日キリストのことばが必要ですから、今日のみことばです。「もし今日御声を聞くならば、あなた方はその心をかたくなにしてはならない」。心をかたくなにするということはキリストについてのことばを信じないということです。それが不信仰になってしまうということです。毎日今日のみことばを聞きながら、このみことばによって私たちは生きるものとして造られました。

 

毎週礼拝を捧げますけれども、神様が喜ばれる礼拝は、この御霊と御言葉によって礼拝する礼拝者です。つまりその人の中にキリストの御霊が内住していて、そしてキリストのことばがあるので、そのことばを信じるということです。ですから今週も現場で成就する神様の約束のみことばを握るために私たちは礼拝を捧げます。

 

神様は皆さん1人1人に一生のためのみことばを必ず与えてくださいます。パウロもイエス様を信じてすぐにパウロに対する神様の一生のご計画は何かということが伝えられました。イエス様はキリストだと驚くべき光の中で「サウロよ」とその声を聞いて、自分の人生の向きを宗教から福音にパウロは変えました。その後で「あなたは私の名を異邦人、王たち、イスラエルの子孫の前に運ぶ選びの器だ」と、生涯にわたるパウロのみことばが与えられました。それでパウロはそのみことばを握って生涯歩み続けました。

 

晩年になって、そしてもう地上の生涯が残すところわずかになっているというような時にも「私はこの神の恵みの福音を証しする任務を終えることができたらもう私のいのちは惜しくない」と。神様が望んでいること、それは証しをするということです。イエス様がキリストであるということです。

 

その証しをするために神様はまずヨハネを遣わされました。ヨハネは証しをしました。何の証しをしたのでしょうか。光について証しをするために神様から遣わされた人がいたとあります。それがヨハネでした。それで人々はヨハネに対して「あなたはキリストですか」とそのように尋ねられた時に、「私はキリストではなくて、私の後から来られる方がキリストなんです」と、そのようにキリストが来られる前触れをしました。

 

私たちも証しをするように神様が願っておられます。しかし自分の力ではその証しをすることは絶対に不可能です。それはイエス様もご存知ですから、私たちが証しをすることができるために力を与えてくださいます。神が遣わされた人は神のことばを語るとあります。

 

時々誤って自分の証だけをするクリスチャンがいますけれども、自分の証しをするように私たちは遣わされるのではありません。先週もNPOの団体の方にお会いして証しをしました。証しをする時に自分の証しをするような証ですけれども、実は「人は一度死ぬことと死んだ後にはさばきを受けることが人間には定まっているのです」という神のことばを伝え、そしてもう1つは「私はよみがえりです。いのちです。私を信じる者は死んでも生きるのです。あなたはこれを信じますか」とキリストのことばを伝えました。

 

ですから自分の証のようだったとしても、それは自分の証ではなくて神のことばですから、キリストを証しするそのような証しとなります。それゆえに神様が遣わされた人は神のことばであるキリストを証しすることができるようになります。なぜでしょうか。御霊を存分に神様は十分にその人に与えてくださるからです。

 

信仰と聖霊とに満たされた時に私たちは「イエス様はキリストです」と大胆に99%の異邦人に証しができるようになります。この祝福を味わう皆さんお一人お一人となりますように主の御名で祝福をお祈りいたします。

 

父なる神様、恵みを感謝をいたします。一度も福音を聞いたことのない99%の異邦人に、主は証しをするように私たちを現場に遣わされていることを信じます。そのことが成し遂げられることができるように上から力を注ぎ満たしてください。イエス様の御名によってお祈りいたします。アーメン。