新宿キリスト教会ブログ

今まで一度も福音を聞いたことのない方へ

【文字起こし】2024年6月30日 主日礼拝メッセージ『キリストがすべて』(コロ3:5-17)

それでは聖書をお読みいたします。本日の聖書箇所は、コロサイ人への手紙3章5節から17節です。それではお読みいたします。

「ですから、地上の体の諸部分、すなわち不品行、汚れ、情欲、悪い欲、そしてむさぼりを殺してしまいなさい。このむさぼりがそのまま偶像礼拝なのです。このようなことのために神の怒りが下るのです。あなた方も以前、そのようなものの中に生きていた時は、そのような歩み方をしていました。しかし今は、あなた方もすべてこれらのこと、すなわち怒り、憤り、悪意、そしり、あなた方の口から出るはずべき言葉を捨ててしまいなさい。互いに偽りを言ってはいけません。あなた方は古い人をその行いと一緒に脱ぎ捨てて、新しい人を着たのです。新しい人は造り主の形に似せられて、ますます新しくされ、真の知識に至るのです。そこにはギリシャ人とユダヤ人、割礼の有無、異邦人、スキタイ人、奴隷と自由人というような区別はありません。キリストがすべてであり、すべてのうちにおられるのです。

それゆえ、神に選ばれた者、聖なる愛されている者として、あなた方は深い同情、親切、謙遜、柔和、寛容を身につけなさい。互いに忍び合い、誰かが他の人に不満を抱くことがあっても、互いに赦し合いなさい。主があなた方を赦してくださったように、あなた方もそうしなさい。そしてこれらすべての上に愛を着けなさい。愛は結びの帯として完全なものです。キリストの平和があなた方の心を支配するようにしなさい。そのためにこそ、あなた方も召されて一体となったのです。また、感謝の心を持つ人になりなさい。キリストの言葉をあなた方のうちに豊かに住まわせ、知恵を尽くして互いに教え、互いに戒め、詩と賛美と霊の歌により感謝にあふれて心から神に向かって歌いなさい。あなた方のすることは、言葉によると行いによるとを問わず、すべて主イエスの名によってなし、主によって父なる神に感謝しなさい。」アーメン。

それでは、「キリストがすべて」という題目で、国邑牧師よりメッセージを取り次いでいただきます。聖書は「キリストがすべて」とそのように言っています。

私に電話をかけてこられる方々がいらっしゃいます。「助けてください」とか「死にたいです」というような状態にその方々は置かれています。なぜ苦しんで、死にたいと思うほどその人が悩んでいるのか。それは病気だったり、人間関係のトラブルではなく、ほとんどの場合はお金の問題です。お金がないので死にたい、苦しいという叫びがその心から出ています。

パウロは「私にとって生きることはキリスト、死ぬこともまた益です」と言いました。そのみことばを思い出しながら、そのような人たちは生きることはお金であり、死ぬこともまたお金なのだと感じます。これは未信者だけの話ではなく、中には自分はクリスチャンだと告白している人もそのように話しています。ですから、思っている以上に人間というのは、この世で生きている間、お金に縛られているのです。

それは決してお金はいらないと言っているのではありません。お金は絶対に必要なものです。お金がなければ未信者であろうとクリスチャンであろうと生きていくことはできません。しかし、問題はそのお金がどこから来るのかということです。お金がどこから来るのか分からなければ、自分は受け取ることができません。

ダビデは「お金は主から来る」と告白しました。パウロも「私の神はキリスト・イエスにあるご自身の栄光の富をもって、あなたがたのすべての必要を満たしてくださいます」と言いました。つまり、キリストが分かればキリストの中にある神の栄光の富があるということです。それを私たちは「光の経済」と表現する時があります。

もう何十年も前の話ですが、初めて「光の経済」というメッセージを聞いた時、本当に衝撃を受けました。それまでの私はクリスチャンで、また牧師でしたが、お金はなくても良い、むしろ貧しいくらいの方が安全だと考えていました。なぜなら、お金を持ったクリスチャンが堕落してしまうのを見てきたからです。この人はお金さえなければ、もっと貧しく信仰生活を送っていれば、世の中に流されて堕落することもなかっただろうにと考えていたのです。キリスト者は貧しく清く正しく生きていくのが良い、そのような考えで信仰生活をしていました。

しかし、「光の経済」というメッセージを聞いた時、神の子どもには光の経済が必要であり、神様は世界福音化のために伝道と宣教のために光の経済を準備しておられる、そしてレムナントの未来のためにレムナントの経済も準備しておられると理解しました。それから、私のお金に対する考え方が変わりました。伝道と宣教に行こうとするならば、飛行機代、交通費、宿泊費、食事代がかかります。伝道はお金がなければ成り立ちません。神様は伝道と宣教のために必要なものを準備しておいてくださっています。

「あなた方は行ってすべての造られた人々、237の国と5000の種族、7000の専門分野の働き人を探しなさい」と主はおっしゃっています。このようにして、神様が私たちの必要をすべて満たしてくださるという信仰がなければ、私たちはその祝福を受け取ることができません。聖書は、そのような人々を「古い人」と表現しています。

この「古い人」は、は自分の力、自分の努力、汗を流してこの世の富を得てお金を蓄えなければならない、そのような考えで縛られている、そのような人の状態です。なぜならばこの人の身分というものは悪魔の子どもであるからです。ヨハネ福音書の8章44節、どこからか悪魔に心を売り渡して今までは別の人だったけれども、途中から悪魔の子どもになってしまったというのではなくて、もう生まれた時からということです。生まれた時から悪魔の子どもである。その証拠は偽りがあり、むさぼりがあり、そして愛がないために人殺しがあるということです。これは父の形を持って私たちは生まれてきたということです。もう生まれた時からこのような性質を持って生まれてきたために、大人になればなるほどこの自分の中にあるこの本質というものが表されていくようになります。

その現れが偶像崇拝です。この偶像崇拝というのは、人間の手で刻んだその形像を作って、金であるとか銀あるいは木であるとか石であるとか、場合には人間、そのような形あるものを作って、そしてその前にひれ伏すということです。本来ならば、人間は神様のかたちを持って作られた神様の子どもでした。ところが、ある日悪魔に騙されたその時から悪魔の子どもという身分になってしまいました。ですからその時から人間というのは、聖書でいうと狂っているとあります。

エレミヤ書の50章38節。このところには、これは南のユダの王国が偶像礼拝をしているから滅びるということをエレミヤが前もって言ったことですけども、あたかもこれは今の日本を言っているようなそういうメッセージです。そこには「ここは刻んだ像の国で偶像の神に狂っている」と書かれています。本当にそうだとそのように思わされます。表面を見ると、知識があって知性もあって、場合によっては品性もあって人格もあって、肉の目で見たら本当に立派な人のように見えますけれども、内側は悪魔の子どもという性質を持って生まれてきていますから、ある日そのような土で木で作られた、石で作られた、金で作られた像の前にひれ伏している姿、それが人間であるということを見たならば、まさに正気ではないと私にもそのように見えます。かつての私もそのような偶像礼拝をしていましたから、本当に正気ではなかったんだと自分自身もそのように思います。

放蕩息子はまさにそのような代表でした。父がまだ生きている時にお金をくださいと言って父からお金をたくさんもらって、そして毎日放蕩ざまの生活をして湯水のようにお金を使い果たしました。で、やがて使い切ってしまったために食べるものにも困ってしまいました。どうしたのでしょうか?豚の餌を食べたとあります。それは人間ではないってことです。豚ですから、豚が食べる餌が豚の餌ですから、人間が食べる食事ではありません。しかし、偶像礼拝をしているということは正気ではないってことです。それで、放蕩息子はその瞬間我に帰ったとあります。本来の自分を取り戻したということです。それは父の家に帰ろうと。悪魔の家ではなくて父の家に帰れば、少なくても以前のようなご馳走ではなくても豚の餌を食べる必要はなくなる。雇い人の1人にしてもらえれば衣食住には心配ないと、そのように放蕩息子が我に帰ったとあります。だから本当に人々を見ると、99%以上の日本の人たちを見ると、本当に偶像礼拝に狂っているんだとそういう状態です。それで、それは当然のことですけれども、そこに臨むのは何でしょうか?それは神の御怒りが臨むってあります。神の御怒りが臨む対象は3つです。まず悪魔に臨み、それから悪魔の使い手たちに臨みます。そしてもう1つはいのちの書に名前が書かれていなかった人。この人に神の御怒りが臨みます。つまり、まことのいのちであるキリストを知らなかった人ということです。一生悪魔の子どもという身分で偶像礼拝して地上の生涯を終わってしまったならば、その人はいのちがありません。ですから、いのちの書にその人の名前が書いてありません。そこで知ったのでは手遅れであるということです。

それで2番目に、この古い人が新しい人に生まれ変われる。これが福音です。これが神様の恵みです。新しい人の身分は神の子どもです。神の子どもになるために必要なものは何でしょうか?それはただ神様の恵みです。世々にわたって長い間、福音は奥義として隠されていました。しかし、今や現されたとあります。この神の奥義が皆さんに現された時に救いに与ることができます。その1つはキリストが誰かということです。あなた方は私を誰だと言いますかとイエス様が質問しました。その質問に対してペテロは「あなたは神の御子キリストです」と。つまり「あなたは」というのはナザレのイエスです。ナザレのイエスと呼ばれたその方は実はキリストですとペテロがそのように告白しました。そのことは父なる神様があなたに明らかにされたのです。神の奥義として隠されていたキリストがイエス様だとペテロは知ることができました。

もう1つはこのキリストはあなたの中におられると。これもまた奥義であると。世々にわたって長い間隠されていたその奥義であるキリストはあなた方の中にいます。本当にこれは奥義ですから知ったならば衝撃を受けるようなそのような内容です。それは人間から出たものではなくて神様の恵みによって啓示されたから信じることができました。どんな信仰でも信じれば救われるというそのような救いではなくて、ただキリストを信じる者を救う、これは神様が決めたことです。キリストが誰なのかということを正確に知った人がいのちの書に名前が記されます。まことのいのちであるキリストが現れるとあります。あ、私が知っていたイエス様がキリストであると、そのことを正しく知っているならば、やがて神の白い座に立ったとしてもその人の名前はこのいのちの書にイエス様を信じて受け入れた瞬間書かれていますから、あるいはもっと前に世界の基の置かれるその前から、子羊の書に名前が記されていますから、この新しい人になるということは一方的な神様の恵みです。

キリストが中におられるということが確かですから、その人はキリストの形に日々変えられていくようになります。ガラテヤ人への手紙の4章の19節にあるように、以前は悪魔の子どもでしたから、悪魔の形、悪魔に似た性質を持っていました。しかし、キリストの中には神の満ちたご性質が宿っていますから、そのキリストが自分の中におられるということは、内側から変えられていくということです。それで日々ますます新しく更新されていきます。

更新されていくためにはどうしたらいいのでしょうか。まずこの古い人を殺しなさいと書かれています。「殺してしまいなさい」という非常に残忍な表現ですが、殺さなければならない。この私たちの古い人をどのようにして殺すのでしょうか。それはキリストが十字架につけられた時に、古い私も共に十字架につけられて死んだということです。そのように信仰によって計算しなさいということです。キリストがただお一人で死んだのではなくて、私も共につけられてその時に死んだのです。別の言い方をすると、「脱ぎ捨てなさい」とあります。古い衣を脱ぎ捨てなさい。その古い衣というのは、色で例えるならば火のようなものです。赤、赤よりももっとなんていうか汚いというか、本当に罪の色がその火のような色です。

ですから、私はまた皆さんは古い人であった時にはそのような火の衣を着ていたけれども、今は脱ぎ捨てて何を着るのでしょうか。脱ぎ捨てた時に何かを着なければ裸になってしまいます。だからこそ、当然イエス・キリストを着なさいということです。イエス・キリストを着るということはどういうことでしょうか。

今まで罪や汚れで汚い衣を着ていたわけですけれども、今皆さんが着ているその衣は雪のように白くなる白い衣を着ているということです。着るということは、その衣と自分は一体であるということです。キリストと一体となっている私が、日々更新されていきます。

このキリストは、天におられます。そのため、天にあるものを求めるようになります。マタイの福音書の6章33節には、「神の国とその義とをまず求めなさい」とあります。この世の国というものがありますが、この世の国に対する見方が変わるようになります。

例えば、この世の国は全世界であり、237の国と5000の民族、そして7000の分野を生かす働き人が準備されている国々です。そこで弟子たちを探し出すということです。この世の国が全てだと感じていた時は、お金や健康、家庭が全てでした。しかし、神の国が全てとなった時には、当然サタンの国やサタンの支配から完全に解放されます。キリストのうちにある神の栄光を知る知識が、その人を求めるようになり、心の中に光が照らされ、日々キリストについて正しく知ることができるようになります。

その結果、キリストが全てとなり、キリストの愛が全てとなります。このキリストの愛は十字架で明らかにされました。ヨハネ福音書19章30節には、全ての問題は終わったとあります。イエス様が十字架で血を流して死んでくださった時に、完全な罪の赦しが与えられ、サタンと悪霊の支配から完全に解放され、私たちは神の国に名前が記されました。

エス様が私たちの全ての問題を十字架の上で終わらせてくださったことを信じた時、赦し合うことができるようになります。教会の中や未信者に対して、許せないと思えるようなことがたくさん起こりますが、そのような時にキリストの愛、十字架につけられたキリストの愛が私に対してどのようなものであったのかを知るならば、許すことができるようになります。

キリストの愛は人知をはるかに超えた広さと高さと長さと深さがあります。ヨハネはキリストの愛を知ったならば、隣人のためにいのちを捨てますと述べています。そこまでキリストの愛を知った人にとっては、いろんな嫌なことをされたとしても、許してあげることができるようになります。なぜなら、自分が赦されたということを徹底的に理解しているからです。

どれほど悪魔の子どもとして罪を重ねて生きていたのでしょうか。そのような自分自身の古い人であった時の生き方を知っているからこそ、私が新しい人に生まれ変わって今こうして生きているのは、一方的な神様の愛と恵みであると理解できるからです。

本当にお互いに赦し合いなさいという、その赦しができるようになります。もしまだ赦せないと本当に心の中で思っているならば、それは危険な状態です。なぜ危険なのでしょうか。サタンが働く通路となるからです。サタンは神の子どもたちが赦せない、赦したくないという心と思いに働きかけます。そのため、サタンの通路で悩まされるようになります。ですから、キリストの愛を知るということは非常に重要です。

そして、キリストの平和が与えられています。これもまた十字架によってです。コロサイ人への手紙1章20節には、御子の血によってとあります。御子の血によって、万物は神様と今和解しています。私たちも以前は神様に対して敵でした。どれくらい敵だったのでしょうか。偶像を愛する者であり、心で神様を憎んでいました。神様を憎んでいるという心の現れが偶像礼拝です。偶像礼拝をしているということは非常に恐ろしいことです。だから聖書では、私たちは狂っていたと書かれています。しかし、今はその血によって神様と和解が与えられました。

今度はキリストの平和が心と思いを支配するようになります。今までなかった平安が、イエス様を信じて心に受け入れた時に与えられるのです。神と和解したということです。そしてそれだけではなく、キリストの言葉をあなた方の心の中に刻み込みなさいとあります。これもまた十字架によってです。第一コリント人への手紙1章18節には、十字架の言葉は神の力ですとあります。神の力である十字架の言葉が自分の中に刻印されて深く根を下ろしていったならば、証人となるということです。

十字架につけられたキリストだけを証しする、その人は証人となります。キリストが全てとなったならば、キリスト以外のことを証ししようとは思いません。立法でさえも影と言われていました。影を主張するのは愚かなことです。影を主張するとその人を罪に定めてしまいますが、本体であるキリストを主張するということは、その人の罪が赦されるということです。だから、罪が赦されるというこの良い知らせ、福音の証人となります。

キリストが皆さんの全てとなったならば、感謝に溢れる人になります。自然に感謝が溢れてきます。以前の自分の姿と今の自分の姿、その変化は全く別の人となっているからです。外見は同じように見えるかもしれませんが、内側は全く別の人です。内側が少しずつ更新されていくと、やがて外側もそのように変えられていきます。周りの人が見てもその変化に気づくようになります。キリストが全てとなったならば、賛美に溢れるようになります。私をそのように救ってくださった神様に全ての栄光を捧げる、それが賛美です。

そして最後に、あなた方のすることは全てイエスの名によってしなさいとあります。例えば、挨拶をする時も「イエス様の名前によって挨拶をします」。その挨拶は「シャローム」ということです。「平安があなた方にあるように」主イエス様の名前によって食事をし、感謝をし、福音を伝えます。「ナザレのイエス・キリストの名によって歩きなさい」、「主イエス様の名前によって悪霊を追い出します」、「ナザレのイエス・キリストの名によって命じる、出ていけ」、「主イエス様の名前によって勉強をします」。レムナントの時はそのような時間なので、勉強する時に「これから私はイエス様の名前によって勉強を始めます」と言って勉強を始めればいいのです。終わったならば「イエス様の名前によって勉強が終わりました」と言います。仕事をしている人は職場で、あるいはテレワークなら自宅で、「これから主イエス様の名前によって仕事をします」。あなた方のすることは全て主イエスの名において行いなさいとあります。イエス様がキリストが全てですから、自然にその人はすることなすこと全てイエス様の名前でするようになります。それがキリストがその人にとって全てとなったということの証拠です。

そのような皆さん一人ひとりとなりますように、主の名で祝福をお祈りいたします。

父なる神様、恵みを感謝いたします。ただ恵みの故に信仰によって救われたのです。誰も誇ることはありません。本当に神様が憐れんでくださり、愛してくださり、その十字架によって私たちを完全に、永遠に救ってくださったことを心から感謝いたします。キリストが全てとなるような信仰生活を送らせてください。イエス様のお名前によってお祈りいたします。アーメン。