新宿キリスト教会ブログ

今まで一度も福音を聞いたことのない方へ

【書き起こし】2024年10月27日 主日礼拝メッセージ『完全に救うことのできるキリスト』(へブル7:17-28)  

【書き起こし】2024年10月27日 主日礼拝メッセージ『完全に救うことのできるキリスト』(へブル7:17-28)  

YouTube https://www.youtube.com/watch?v=hR48QrGFOvE

 

"この方については、こうあかしされています。「あなたは、とこしえに、メルキゼデクの位に等しい祭司である。」

一方で、前の戒めは、弱く無益なために、廃止されましたが、

--律法は何事も全うしなかったのです--他方で、さらにすぐれた希望が導き入れられました。私たちはこれによって神に近づくのです。

また、そのためには、はっきりと誓いがなされています。

--彼らの場合は、誓いなしに祭司となるのですが、主の場合には、主に対して次のように言われた方の誓いがあります。「主は誓ってこう言われ、みこころを変えられることはない。『あなたはとこしえに祭司である。』」--

そのようにして、イエスは、さらにすぐれた契約の保証となられたのです。

また、彼らの場合は、死ということがあるため、務めにいつまでもとどまることができず、大ぜいの者が祭司となりました。

しかし、キリストは永遠に存在されるのであって、変わることのない祭司の務めを持っておられます。

したがって、ご自分によって神に近づく人々を、完全に救うことがおできになります。キリストはいつも生きていて、彼らのために、とりなしをしておられるからです。

また、このようにきよく、悪も汚れもなく、罪人から離れ、また、天よりも高くされた大祭司こそ、私たちにとってまさに必要な方です。

ほかの大祭司たちとは違い、キリストには、まず自分の罪のために、その次に、民の罪のために毎日いけにえをささげる必要はありません。というのは、キリストは自分自身をささげ、ただ一度でこのことを成し遂げられたからです。

律法は弱さを持つ人間を大祭司に立てますが、律法のあとから来た誓いのみことばは、永遠に全うされた御子を立てるのです。"

ヘブル人への手紙 7章17~28節

 

先週は初めて東日本神学校という東北地方にある神学校に行く機会が与えられました。初めてそこに来ましたので、そこで神学生あるいは聴講生として来ておられる一人一人に、「もし牧師としての召命のみことばが与えられているならば、その召命の証しを、まだ牧師としてみことばが与えられていなければ救いの証しをしてください」と、そのようにお願いして皆さんの証しを聞く機会が与えられました。

 

東北地方はご存知のように、偶像の中でも本当にひどい地域です。ですから、そのような中からアブラハムの子孫として導かれ、そして神様のことを学ぶ神学校まで導かれたということは、本当に神様の一方的な恵みだと思います。しかし、その証しの中では健康的な問題であるとか、経済の問題であるとか、家庭の問題であるとか、皆それぞれ問題を抱えていました。

 

それである方が私にこのような質問をされました。「なぜ私にはこのようなヨブのような苦しみが与えられているのですか」と。本人がヨブのようなということをおっしゃったので、「神様がヨブにそのような苦しみを与えられた目的は、心の目が開くためです」と、そのように答えました。

 

心の目が開いた結果、苦しみの中で「私は贖う方を私は知っている。この目でその方を見る」とヨブはそのように苦しみの中で告白しました。つまり、ヨブを贖う方はキリストですから、「キリストを私はこの目で見る。他の人の目ではなく、私の目がこれを見る」とヨブがこのように苦しみの中で信仰を告白しましたけれども、その告白した信仰のように、「今まで私は噂で知識で神様のことを知っていました」、つまりそれは今まで私は宗教生活をしていましたけれども、「今私はこの目であなたを見ました」、つまり福音を知りましたということです。

 

宗教と福音は全く別のことです。神様の目的は私たちが宗教生活から離れて福音の中に入ることです。福音の中に入ったということはキリストを見たということです。キリストを見たということは全ての問題が終わったということです。福音に結論が出るということです。

 

福音に結論が出たということは、自分が抱えているどのような問題であったとしても、その問題はキリストが私の問題を完全に救ってくださった。今日のみことばの通りに、私の問題というものは私が頑張って解決する、キリストが何か問題を残しておられる、そういう救いではなくて、私には完全な救いが与えられているというこの信仰に立つということです。

 

質問に答えながら、自分自身が心の目が開くということは、福音に結論を出したということと同じなんだというように思わされました。それで皆さん一人一人も今日みことばの戸が開いて光が差し込んで、本当にわきまえのない私たちですけれども、悟りが与えられるように主の御名で祝福をお祈りいたします。

 

まず第一番目に、律法が何かということを正しく知ることが必要です。この律法が何かということを正しく知らないと、イエス様を信じた今でもこの律法というものに縛られて、何かこうしなければという自分の行い中心の信仰生活、教会生活を送っている人がいます。この律法というのはモーセを通して神様がシナイ山で与えられた古い約束です。それでこの律法というのは前の戒めと呼ばれていました。

 

この律法というのはどういうものかというと、完全ではないと。律法が完全であるならば後の戒めなど全く必要ないわけですけれども、しかし律法は弱く、そして無益であると。律法をどんなに皆さんが守ろうとしたとしても、その努力とか行いには何の利益もないと。だから律法は何事も全うしなかったとあります。このことを正しく知ることです。「それゆえ律法は廃棄されました」とあります。律法は終わったということです。

 

律法が終わったということは祭司職も終わったということです。律法の中にこの祭司職というのが規定されていますから、この祭司職というのも完全ではないということです。もちろん神様が祭司を立てて、そしてその祭司の中から油を注いで大祭司を立てる、それはこの律法の中で神様が定められたものです。

 

しかしその神様は祭司職の中でレビ族以外のものを祭司と立てたとあります。メルキゼデクという人物はレビ族のそのような系譜ではありません。しかし神様はこのメルキゼデクを立てたということは、この祭司職というものが終わったということです。

 

この祭司の中から一人大祭司が選ばれます。大祭司が選ばれた時にはその大祭司の上に油が注がれます。神様が大祭司として立てたという証拠、それが油そそぎです。律法は弱さを持つ人間をこの大祭司として立てます。弱さを持つということはどういうことでしょうか。人間ですから罪を犯すということです。

 

それで自分の罪のためにも血を携えて、それから他の民のためにも血を携えて、この大祭司は至聖所に入らなければなりません。もし血を携えないで至聖所に入ってしまったならば、その瞬間この大祭司は死んでしまいます。死んだという証拠は、足首のところにこう紐がつけられて鈴がつけられています。歩いていれば鈴が鳴りますけれども、その鈴が鳴っていないということは至聖所の中で大祭司が死んだということです。

 

それぐらい神様が選んで立てられたそのような大祭司でもこの弱さ、死ななければならないというこのような大祭司です。死ぬことがあるために年ごとに一人ずつ神様が大祭司として働きをする人を選びますから、当然この大祭司の働きというものは人間を完全に救うことはできないということです。

 

これが律法というものです。これが律法なんですけれども、福音が正確に分からないと今でもこのような中で生活をしてしまうということがあり得ることです。神様はこの律法の後に誓いのみことばを与えられました。神様が誓いの与えられた誓いのみことばは何でしょうか。それは新しい契約を立てるということです。

 

新しいと神様が言われた時には、以前のもの、前のものはもう古いということです。それでこの新しい契約というものは一つもかけているというところがないということです。こちらはかけているために何事も成し遂げられませんでしたけれども、しかし新しい契約は全てを全うすることができる、そういう契約です。

 

それゆえにこちらは廃止されましたけれども、新しい契約は成就されました。マタイの福音書の5章の17節でイエス様が「私は律法を廃棄するために来たのではなく、この律法を成就するために来たのです」そのように言われました。このイエス様は神様がとこしえの祭司として立てられたからです。

 

つまりこの以前の祭司職というものは終わったということです。それが神様が誓われたということです。先ほど読んでいただいたみことばにありますように「主は誓ってこう言われた」。21節「みこころを変えることはない。あなたはとこしえに祭司である」。神様はこのことに対してみこころを変えることは絶対ないということです。この神様が立てられた祭司というのは絶対であり永遠に変わることがありません。その方がまことの大祭司となられました。

 

神様は誰をこの大祭司として立てたのでしょうか。ご自分の御子を立てられたとあります。ご自分のひとり子を大祭司として選んで、そして頭に油を注いでキリストとして立てたということです。この方が完全な大祭司であるという証拠は、創世記の3章の15節「女の子孫が蛇の頭を踏み砕く」。蛇はサタン、このように支配するものですけれども、その悪魔サタンに勝利するために来られるキリストは男の子孫ではなくて女の子孫である、つまり罪のない方であるということです。

 

罪のない方が大祭司として立てられました。以前の大祭司は罪を犯すというその弱さを持っていますから、自分の罪のためにも血を流さなければなりませんけれども、この方は自分の罪のために血を流すその必要がありません。全てのご自分以外の人のために十字架の上で血を流す、それはただ一度だけであるということです。

 

ヘブル人への手紙の7章の27節「キリストは一度だけ生贄となってご自分を捧げられました」。けれどもそのこと私たちは信じたわけです。しかし信じて神様から離れて行ってしまった、そういう人たちが、そのヘブル以前はユダヤ教の信者だったんですけれども、そのユダヤ教の信者からキリストを信じるようになった。しかし今迫害の中で自分が信じたこの信仰を捨てて元の宗教に帰っていったというような人たちがいるならば、キリストはもう一度来られて二度目の贖いを成し遂げてくださるということはないということを、このヘブル人への手紙の記者が書いています。

 

ただ一度だけであるということです。そしてただ一度だけですけれども、その働きは永遠であるとヘブル人への手紙の7章の28節「贖いは永遠に完成された」ということです。これが完全な救いということです。神様が与えてくださる救いというのは、そういう意味で中途半端な救いというものは決してありません。

 

ただ私たちの方で、自分がイエス様を信じたけれども、そしてイエス様を信じて受け入れて神様の子どもになったけれども、何か自分の中で問題が解決しないようなことがいっぱいあるという時に、大体その問題を解決しようと思ってその人はあちらに行ってみたり、こちらに行ってみたり、そのなんとかしようともがいてしまいます。

 

結局どこに行ったとしても解決しないと思うと、今度は諦めて途方にくれてしまう。もうこの問題は仕方がない、もう自分は天国に行けるだけでもいいと。本当は完全な救いを与えてくださっているのに、その自分が与えられている救いが完全であるってことが分からないからです。

 

エス様はどのような方でしょうか。イエス様はキリストです。つまりこの福音が分からないということです。信じているんですけれども、しかしその全体がどのようなものであるか分からないということです。キリストはまことの王ですから、詩編の2編の2節というところに「諸々の国の王たちが主と主に油そそがれたもの、キリストに逆らう」とあります。どんなに世界中の王たちが主とその油注がれた方キリストに逆らったとしても、この御座についておられる方はどうするのでしょうか。笑うと書かれています。笑っているだけです。なぜならば全てのものはご自分の足の下に置かれていますから。足の下に置かれているものがどんなに自分に敵対しようとしても、それは敵にならないということです。

 

黙示録で最後の戦いがあります。サタンとその下僕たちがキリストと神の国に向かって戦いを挑みますけれども、どれぐらいその時間がかかるでしょうか。一瞬です。一瞬でこのサタンとサタンのしもべたちはその神の口から出る一瞬の息を吹きかけられたら、もうそれで敵は終わりということです。そのイエス様がキリスト、まことの王でいらっしゃるということです。

 

そして詩編の68編11節、まことの預言者であるキリストはみことばを賜う。みことばを賜うということは、みことばをくださるということです。皆さんに必要なみことばを必要な時にその人にふさわしいみことばを与えてくださるという約束です。それが伝道者にとっては今日のみことばとなります。今日私にみことばをくださいと皆さんが朝目が覚めて祈る時に、まず最初の祈りが今日私にみことばをください。この祈りに対して必ず与えてくださる。それがまことの預言者です。

 

なぜならば人はパンだけで生きるのではなく、主の口から出る一つ一つのことばで生きるものとして造られていますから、みことばがないと私は生きていけません。それが本当の信仰者です。みことばがなくても生きていけるとしたら、ただ自分の勝手な道に向かっていくだけです。

 

聖霊の導きを本当に受けようと思う人、その人が最初にすることは何でしょうか。自分の考えを捨てることです。次にすることは何でしょうか。自分の好み、自分の感情を捨てることです。私はこれが好きだ嫌いだというものが誰もあると思います。自分のそういう好みに縛られていると神様のみことばが与えられても、それが神様のみことばだと分かりません。

 

自分の考えに縛られていると、その自分の考えに固執してどうしてもこれをしたいと、結局最後は「私のやりたいことを祝福してください」「私の好きなことを祝福してください」そういう祈りになってしまいます。それは逆であって、私の考え、私の好み、感情というものを十字架につけてしまった時に、その後に来るのがこのみことばです。

 

ですからなぜみことばが来ないんだろうと。神様の方ではもし今日み声を聞くならばと、もう準備してくださって皆さん一人一人に与えたいと思ってるんですけれども、その皆さんの方で心を閉じて私の考え、私の好み、感情というものに縛られていると、心の扉が開きませんから、みことばがその中に入ることができません。ですからなぜ今日みことばが与えられないのか、それはそのように自分が別のことに囚われている、そういう理由があるからです。

 

それでもう一つ、まことの大祭司であるキリストは詩編の110編の4節、本文の中にもありますけれども「あなたはとこしえにメルキゼデクの位に等しい祭司である」。レビ族のアロンの位でもなく、レビ族以外のメルキゼデクの位でもなく、このキリストの位、それはまことの本当の大祭司です。イエス様はこのようにしてキリストの働きをしてくださるために、詩編の中で預言され約束された通りに来てくださいました。

 

そのイエス様をキリストとして信じて心の中に受け入れる時に、何が起こるのでしょうか。

 

ヘブル人への手紙8章10節。ここで言われていることは、心と思いの中に神様のみことばが入ってくるということです。この律法というのはどういうものでしょうか。この律法というのは、外側から神様のみことばが教えられることです。十戒はこういうものであり、神様の戒めはこういうことだと外側から教えられることです。

 

人はなかなか外側から教えられたからといって悟るようなことはできません。むしろ「これは嫌だな、窮屈だな」とそのように感じます。なぜならば、自分が守れないからです。守れない戒めが与えられていますから、守ろうとしても絶対に不可能なことです。

 

ところが「律法をあなたがたの心と思いに書きつける」とあります。内側で「あ、神様はこういう方なんだ」と、イエス様をキリストとして心の中に信じて受け入れた時に、神のみことばが信じた人の中に入りますから、そのみことばが神様がどういう方かということを悟らせてくれます。

 

それで誰からももう外側から律法によって教えられなくても、内側からもうそのたましいが、その御霊が神様と出会って「あ、これが道だったんだ。今まで私は迷子の羊のようにさまよっていたけれども、あ、今私は神様のもとに帰ったんだ」というそのたましいの安らぎが臨むようになります。

 

それだけではなく、罪の完全な赦しが与えられます。ヘブル人への手紙8章12節、これは神様がなさることですから。どのようなことを神様がしてくださるかというと、あなたの罪をその血によってもう完全に思い出さないと神様の方で、どんなに私たちが数えきれないほどの罪を犯したとしても、神様は全て忘れてくださるということです。これが信じた皆さんに対する約束です。

 

そしてもう1つは、この方は大能者の御座の右につかれると、ヘブル人への手紙8章1節にあります。大能者の右の座に座されるということは、王の座に座されたということです。

 

そしてこの方がどこにおられるのでしょうか。コロサイ人への手紙1章27節、「あなたがたの中におられるキリスト」。イエス様をキリストとして受け入れたのですから、そのキリストが信じた皆さんの中におられて、このようにしてみことばをくださり、罪を完全に忘れてくださり、そして王の座について私たちを御座から招いてくださっています。

 

それで結論として、キリストは完全に救うことがおできになるので、ヨハネ福音書19章30節で「全ての問題は完了した、終わった」とそのように言われました。全ての問題が終わったということは、色々な問題があったとしても、ヘブル人への手紙1章14節、御座から天軍天使を皆さんに遣わしてくださるということです。

 

皆さんが苦しい環境や敵の前に例え置かれていたとしても、この天軍天使が遣わされたならば、その敵の軍勢は滅ぼされてしまいます。その信仰です。「あ、私は敵に囲まれても大丈夫だ」と。心の目が開いていないエリシャのしもべは朝目が覚めたら敵の軍に囲まれていました。「どうしたらいいでしょう。私たちはもうダメです」。心の目が開いていたエリシャは「恐れるな。私たちと共にいるものの方が、彼らと共にいるものよりも多いのだから」。全く敵の軍勢が取り囲んでいても、それは問題ではない。天軍天使がその後ろにまた取り囲んでいるから、一瞬のうちにこの世の軍勢というものは終わりますし、またサタンも悪霊もこの足の下に置かれていますから、問題はないということです。それからヘブル人への手紙4章12節、神のことばは生きていて力があり、どれぐらい働いてくださるのでしょうか。神のみことばがたましいと霊に入ったら、私たちは死からいのちに移されました。その心と思いに入ったら、神の平安があなたがたの心と思いを支配するようになります。その肉体に入ったならば、私たち病んでいる体が癒されるようになります。

 

例え悪霊がその人の中に出たり入ったりしていたとしても、キリストの御名によって命じる、サタンもまた悪霊も出ていけと。そのように権威を使って命じたならば、この神様のみことばの権威で悪霊もサタンも退く以外にありません。

 

もう1つのことです。まことの大祭司としてしてくださることは、7章の25節、結論としてこのみことばを読んでみたいと思います。「従ってご自分によって神に近づく人々を完全に救うことがおできになります。キリストはいつも生きていて、彼らのために取りなしをしておられるからです」。キリストがいつも取りなしていてくださる、皆さん1人1人のためにキリストが取りなしていてくださる、これで十分ということです。

 

具体的な例を最後にお話して終わりたいと思いますけれども、イエス様が十字架につけられるその直前に、シモン・ペテロに対してイエス様はこう言いました。「サタンがあなたがたを麦のようにふるいにかけて不信仰にさせます。しかし私はあなたの信仰がなくならないようにあなたのために祈りました。それであなたは立ち直ったならば兄弟たちを助けなさい」と、前もってイエス様はこのようにペテロに伝えました。

 

でイエス様がおっしゃったそのみことばのように、サタンにふるいにかけられてしまいました。ペテロは「私はあなたを知らない、イエス様と私は何の関係もない」と完全に不信仰になりました。ペテロだけではなく他の人たちもみんな逃げていってしまいました。そのような中でイエス様が十字架の上で命を捨てて大祭司の働きを成し遂げられました。

 

そして3日目に死者の中からよみがえられて御座に着座されました。御座に着座されたイエス様は、前に約束されたようにもう1人の助け主を御座から弟子たちに遣わされました。それがマルコの部屋で起こったことです。タラッパンで起こったということは、この神様の契約を握っていた1人1人に五旬節の日になって聖霊が臨んだということです。聖霊に満たされたそのペテロは、「主を知らない」と少し前にそのように裏切ったのにも関わらず、「イエスはキリストです」と大胆にあかしをしました。そして3000人の人たちがその日イエス様をキリストとして信じて受け入れて弟子の中に加えられました。

 

このようにしてペテロは、自分は本当に自分の信仰でさえも「私は死んだとしてもついていきます」とそのように人間が感情的に熱心に告白する、そういう告白は当てにならないということです。人間の中にあるものは良いものなど1つもありません。それをイエス様はご存知です。ですから自分の中に何かがあるから神様のために働ける、私はその自分の中にある信仰で頑張るんだと、そういう風に思った信仰でさえもなくなってしまいます。

 

なくならないのはなぜでしょうか。イエス様が御座について皆さん1人1人のために取りなしていてくださるということです。どのような状況に皆さんが今置かれていたとしても全ての状況をご存じで、場合によっては御使いをそこに派遣してくださり、また場合によってはみことばを与えてくださり、「恐れるな、私があなたと共にいる。たじろぐな、私があなたの神だから」この御言葉がその恐れている人に臨んだだけでも恐れは閉め出されますから問題は解決します。

 

「ああ、私はもう信仰がなくなってしまった」と、例えペテロのようにイエス様を知らないとそのように否定したとしても、その信仰がなくならないどころか、その信仰が完全に回復する。その理由は皆さんには全く関係ないということです。自分が失ってしまった信仰を自分が回復するなどということは、それは不可能なことです。御座についておられる方がまことの大祭司として皆さん1人1人のために今も生きていて取りなしてくださるので、その取りなしによって皆さん1人1人の信仰が今日も生きて働くということです。

 

今日恵みを受けるためにこのようにして恵みの御座に近づいているということは、皆さんが抱えている問題がどのような問題であったとしても、その問題に対して完全に救うことができる方、その方がキリストですから、本当にイエス様をキリストとして信じたということは、今どんな問題を抱えていたとしてもそれは問題ではないということです。

 

その問題と思えるようなものは、場合によっては福音を知る機会であったり、その問題と思えるようなものは、その問題の裏側には神様の祝福が隠されていたり、思いもよらないようなそのような神様が働いてくださるので、私たちの肉の目で見て問題だ問題だと私たちは不信仰になりますけれども、御座についておられる方は私たちのためにいつも生きていて今も取りなしていてくださいます。

 

それゆえまことの大祭司が全ての問題を解決してくださった。王も預言者も全ての問題を解決してくださる。このような信仰に立つ皆さん1人お1人となりますように主の御名で祝福をお祈りいたします。

 

父なる神様、御座についておられる方と子羊とに全ての栄光とほまれと賛美を捧げます。今日も私たちは恵みの御前に出ています。折りにかなう助けとなる恵みを1人1人に与えてくださることを信じます。イエス様の御名によってお祈りいたします。アーメン。